史料 田中内村の地名・字名考
大内勘衛門「田中内村地名考・字名考」
天保14年(1843)、常陸国久慈郡大橋村と田中内村(いずれも現日立市)とは合併して大和田村となります。新しい村名には、大橋の大と田中内の田を和をもってつなぐ、そうした意味があるといいます。合村前の田中内村の地名・字名の由来について、江戸時代に田中内村の大内勘衛門が検討を加えている古文書を大和田町大内家文書「田中々邨役儀前録」の中に見つけました。ここに紹介します。
この記事が書かれた時期は前後の記述からみて文化年間(1804—18)と考えられます。
凡例
- 縦書きを横書きにあらためた
- < >は見セ消チ
- □は判読できなかった文字
- 適宜、読点 、を編者においてふした
- [ ]は編者註
- 項目ごとに文字を小さくして現代語訳を示した
地名考
- 一 田中内村と往古より書來候所、元禄六酉九月源義公様大内勘衛門殿方へ被為 成、詩歌之御會被為 在候砌、田中内の内の字中の字に改候様被 仰出、夫より已來田中中村書改候、□然往古より称 田河内 と云、田中々と書とも、称はタナカウチ、<本元の称と>方言と知るへし
- ─田中内村と昔から書いてきたが、元禄6年(1693)9月に義公(徳川光圀)様が大内勘衛門宅で詩歌の集りをもったとき、田中内の内を中の字に改めるようにと命じられ、それから田中中と書くようになった。古くはタナカウチと読み、田河内とか田中内、田中々と表記した。タナカウチと言うのは方言である。
- [文中に元禄6年9月に退隠後の徳川光圀が田中内の郷士大内家にやって来たことが記されている。事実、元禄6年9月28日から10月8日まで大内家に滞在し、詩歌の会を久昌寺住持日乗らと催している(日乗上人日記)ことがわかっている。]
字名考
- 一 高内本字田河内 也、我か居地名也
御検地帳を考るに削リ直して書改候と見ゆる、□宮等考ふへし- ─高内 よみはタカウチ。元の字は田河内である。私が住む所の地名である。寛永の検地帳の記載から考えると、田河内の三文字から同じ音の高内の二文字に改めたものと思える。
- 一 荒ち 本字新地 也 □衛門より西六衛門、南は新兵衛、庄二郎等迄也
此考<宿並訓て居余り西の方>あらたに開ひて居する故新地云也、今西新地と云- ─荒ち 元の字は新地である。よみはアラチ。新に開発して住むようになったので、新地というようになった。今は西新地という。
- 一 穴田 水を持さる無水の田故穴田と云
- ─穴田 水が抜けてしまう田であるので穴田という。
- 一 <万ケ内 >満江内 如字、後世万ケ内と書は誤也
- ─満江内 よみはマンカウチ。字のとおり。後世になって万ケ内と書くのは誤りである。
- 一 辰町 竪に町並の如に地割せし地なる故云、本字竪町
- ─辰町 町並みのように竪に長く地割(区画)した土地なのでこういう。元の文字は竪町である。
- 一 諏訪河原 一名くわから、又一名すけから、両名共略語なり 諏訪明神の旧跡也、福田氏理左衛門爰に住し諏訪明神を氏神とす
- ─諏訪河原 くわから、すけからとも言う。ともに諏訪河原が簡略化されたもの。かつて諏訪明神があったところである。福田理左衛門がここに住み、諏訪明神を氏神としていた。
- 一 七石
- 一 いかつち 一作雷ち 雷神の祭りし跡有り、往古雷落たるをあると見いたり
- ─いかつち 「雷ち」と書くこともある。雷神を祀った跡が残る。むかし雷が落ちたことがあることからこの名がついたものと考える。
- 一 てくるほ内 本字出来る穂内、古へより熟地也
- ─てくるほ内 元は「出来る穂内」と書いた。古くから肥沃な土地だった。
- 一 あかふち前 本字□河内 前 其地江に添ふ故、あの川内の前と云事也、惡内前とも書見ゆふ字也
- ─あかふち前 元の字は□河内前。よみはアカウチ。その地は用水路に沿っているため、あの川内の前ということ。惡内前と書いているのを見ることがある。
- 一 あらく 一作荒く 本字新呉 也、新に土呉返して開發と云心也
- ─あらく 荒くとも書く。元の字は新呉と書き、アラクと読む。あらたに土塊(つちくれ)を返す、つまり新開の土地という意味である。
- 一 <笠井田>栖 いた 栖カサト云訓未考、木扁西ノ字スミカノ訓アリ、栖誤也、依て後世笠井田と書ものか
- ─栖いた 栖をカサとしているが、そうは読めない。木偏に西の字はスミカの訓がある。栖の文字は誤りであろう。したがって後世になって笠井田と書くようになったものか。
- 一 屋し内前 家居せし地にて屋敷内前の略語也
- 屋し前 家をつくって住んでいる土地なので屋敷内前がつづまったものである。
- 一 十二所 茂宮鎮守十二所明神の社地に続故云也
- ─十二所 茂宮村の鎮守十二所明神の社地に続く土地なのでこの名がある。
- 一 犬飼 古犬追物の□□せし場所也
- [犬追物(いぬおうもの)とは、騎馬で走る犬を追物射(おものい)にする武芸のこと。肝心の二文字が読めない]
- 一 田島 如字、田中の畠、如島
- ─田島 文字通り水田に囲まれた畠が島のように浮かんでいるように見えることから名づけられた。
- 一 和尚塚 何某の僧を葬りし塚有り
- ─和尚塚 僧侶を葬った塚があることから名づけられた。
- 一 道場内 僧の住せる地なる故云
- ─道場内 よみはドウジョウチ。僧侶が住んだ土地だからだと言う。
- 一 町田 字の如し
- 一 細谷 字の如し
- 一 下宿 古への往還にて道の左右に家居せし故下宿と云
- ─下宿 古くからの往還があり、道の両側に家が建ち並ぶので下宿という。
- 一 かに屋敷 此地古へ川の流れ跡にてかになんと多く住候故云、寛永の後開け地なり
- ─かに屋敷 この地区は遠い昔に川が流れた跡地で、カニがとても多く棲んでいたので名付けられたと言う。寛永年間ののち開発されたところである。
- 一 本宮 <元>本宮権現の社地にて、今の神官黒沢山城先祖も爰に住せしと云
- ─本宮 本宮権現の社地があったところで、今の羽黒権現の神官黒澤山城の先祖もここに住んだと言う。
- 一 五升塚 本宮の地に隣ありて小塚有り、今の世の供養塚のたくひなり、元五段に築しと見ゆ、升の字にノホルと云訓有之にてしるへし
- ─五升塚 本宮のとなりあって、小さな塚がある。今の時代の供養塚のたぐいである。はじめは五段に築かれていたものと考える。昇(ノボル)のくずし字が升の字に似ており、元々は五段のぼるを、五升と書くようになった。
- 一 新橋川へり 一作新橋川はた、寛永の後開發せし今の新橋の地名よるもの也
- ─新橋川べり 新橋川はたとも書く。寛永の検地後に開発した新橋の地名によるもの。
- 一 あらや <本家>新家 宿並の内字也、<あらちの次に也>東辰巳の方今東新地是也、武衛門、十衛門、茂次衛門、太次衛門、又左衛門、喜衛門、善衛門、弥衛門等迄あらやと云
- ─あらや 新家と書いて、アラヤとよむ。宿並内の地名である。今、東南東の方角にある東新地がこれである。武衛門からはじまり、十衛門、茂次衛門、太次衛門、又左衛門、喜衛門、善衛門、弥衛門が住むところまでが「あらや」である。
変化する字名
上記文化年間の大内勘衛門「字名考」にある字名と天保検地後の際に作成されたと考えられる「久慈郡大和田村田畑反別絵図」(慶応3年写 日立市郷土博物館蔵)と1957年「日立市域旧町村大字別小地名一覧」(千葉忠也『史料による日立市域の町村分合』)の字名と対比してみる(—は記載なし)。
以前 | 文化年間 | 天保検地 | 1957年 | |
田河内 | 高内 | — | — | |
新地 | 荒ち | — | — | |
穴田 | 穴田 | 穴田 | ||
満江地 | 萬ヶ内 | 萬ヶ内 | ||
堅町 | 辰町 | 辰町 | 辰町 | |
諏訪河原 | 諏訪河原 | 諏訪ヶ原 | ||
七石 | 七石 | 七石 | ||
いかつち | 雷土 | 雷土 | ||
出来る穂内 | てくるほ内 | テクルホウチ | デクルボ | |
□河内 | あかふち前 | — | — | |
新呉 | あらく | — | — | |
栖いた | 笠井田 | 笠井田 | 笠井田 | |
屋し内前 | — | — | ||
十二所 | 十二所 | 十二所 | ||
犬飼 | 犬飼 | 犬飼 | ||
田島 | — | — | ||
和尚塚 | 和尚塚 | 和尚塚 | ||
道場内 | 道場内 | 道場内 | ||
町田 | 町田 | 町田 | ||
細谷 | 細谷 | 細谷 | ||
下宿 | — | — | ||
かに屋敷 | 蟹屋敷 | 蟹屋敷 | ||
本宮 | 本宮 | 本宮 | ||
五升塚 | — | — | ||
新橋川へり | — | — | ||
新家 | 東新地 | — | — | |
— | 関場 | 堰場 | ||
— | 二町田 | 二町田 | ||
— | 落見 | 落見 | ||
— | しんか | シムカ | ||
— | 西原 | 西原 | ||
— | 東宿 | 東宿 | ||
— | 西宿 | 西宿 |
文化年間と慶応3年の間に大きな変化があったことがわかる。それは両時期にはさまれる天保期の水戸藩総領検地によって、字名と字界の変更、整理がなされたことをうかがえる。そして明治初年の地租改正による地籍調査をふまえた1957年の「小地名一覧」まで大きな変化はない。
地名もまた変化するものである。どれが正しい表記かという問が無意味であることをこれらの変化をみればわかることである。
地名研究
文化文政期は、水戸藩領においても「郷土」への歴史や地理への関心が高まり、高倉逸斎「水府地理温故録」のほかに水戸の町人の栗田栗隠、加藤松羅らが研究の成果を形にしていた。また小宮山楓軒がまとめた水戸領内の地誌「水府志料」の基礎資料の提出が村に命じられた時期(文化2年)とも重なる。
郷士大内勘衛門が自らが住む田中内村の地名の由来を書き著したのも、そういう時期であった。
この大内勘衛門の地名・字名考は、日立市域において初の地名研究ではないだろうか。