消えた村名 日立市の場合

日立市域において、江戸時代以来明治の中期までのおよそ300年間つかわれてきた村名が町名(ちょうめい)として残るものがある一方、失われたものがある。さらに地名としては、まったく新しいものある。それらは戦後の住居表示制度によって失われたり、誕生したものである。消失したもの、新たにつくられたものを中心に江戸時代の村名の変遷について簡単に紹介しよう。

目次

1960年以降、住居表示による消失村名

油繩子村

ゆなご(江戸時代には「ゆなわご」と呼んでいたらしい)。ほぼ現在の鮎川町。

今では小学校名と交流センター名、バス停に残るのみとなった。残念なことである。

ちなみに鮎川とは諏訪村・油繩子村・成沢村をながれる川の名前で、江戸時代には諏訪川といったものだが、近代にはいっていつしか鮎川となった。1899年(明治22)の市制町村制がしかれた際、諏訪・油繩子・成沢の3村が合併して鮎川村がうまれた。3村をながれる川の名前を村名にしたのである。その後1939年(昭和14)4月に周辺の町村と合併して多賀町となるまでつかわれた。したがって鮎川という地名は、村名としては40年の寿命だった。

さて、現在の鮎川町だが、3村がひとつになったときの村名を油繩子にだけあてるというのもおかしなはなしではある。諏訪町・成沢町は現在に残っているのに。

下孫村

しもまご。現在のほぼ多賀町(たがちょう)。下孫村は岩城海道に沿った宿場である。近世に入って街道整備にともない新たにつくられた村と考えられる。下孫村の隣の大久保村に上孫という字名が残っていることからも大久保村から独立したことが考えられる。

多賀町はこの文字通りでいけば、1939年4月1日に河原子町(まち)・国分村(むら)・鮎川村が合併し、新たにつけられた多賀町(たがまち)と同じ表記で、1955年には日立市と合併して消滅するから、16年という短命の町の名だった。自治体の名称が単なる住居表示の町名になりさがった(こんな言い方はないが、表現のしようがなかったので使わせていただく)例である。

かつて成沢町(村)の字名である「上の内」がバス停の呼称(かみのうち)の問題がとりあげられ、古くからの読み(うえのうち)に戻すよう歴史学者・民俗学者たちの運動があって、旧に復したことがある。よろこばしいことだが、外の地域で江戸時代以来の村名が消されてしまった事実に目をつむり、ひろく地名保存にはむすびつかなかったのは残念である。

江戸時代の合村による消失村名

久慈郡

江戸時代における改称村名

釈迦堂村  → 神田村 … 徳川斉昭が仏教にちなんだ村名はけしからんと、神田村と改称したと伝えられる。これはこれで歴史のひとこまだからいいが、歴史的かつ村民が使ってきた地名を領主ひとりの考えで変えてしまうのも…。
大窪村 → 大久保村
相賀村 → 会瀬村

住居表示による町名あれこれ

まったく新しい町(ちょう)名をつけた

白銀 由来はわからない
高鈴 高鈴山に近いからか。民間住宅分譲会社がつけた団地名称だったか
本宮 わからない
神峰  宮田村の村社だった神峰神社からとったか。しかし神峰神社は神峰町には所在せず、宮田町にある。また神峰町の区域は広いだけでなく、隣の助川の中心部まで及んでいる
若葉 わからない
わからない
鹿島 助川鹿島神社に由来するか
平和 平和通りに沿った地区だからか
まったく見当つかない。が幸町に日立製作所の日立工場がある。その本社は当時千代田区内幸町にあった。関連あるのか、ないのか
城南 助川海防城の南にあるからか。海防城は当時は城でなくて館とよばれていたのだったのだから、字名である田手沼(たでぬま−館沼?)町のほうがよかった
国分 もしかしたら日立製作所国分工場があったからか。国分工場は多賀町以前にあった国分村(金沢・大久保・下孫)からとったものと思われます
桜川 近くを桜川が流れるからか
末広 緑川さんから次のようにお知らせいただきました

「昭和40年代の区画整理によって、現在の多賀消防署から扇状に広がる地区が、末広がりに発展する願いをこめて命名されたと聞いています。」

地図を見るとたしかに、消防署を要にして、道路が扇状に西に向かっています。末広町一帯は、多賀町の都市計画によって住宅地として整備された地域でした。(2006.7.5追記)

中丸 わからない。民間住宅分譲会社がつけた団地名称だったか
千石  「ちこく」と読む。小字名は十石(じっこく)。十石では少なくて恥ずかしいと、千石にして、よみを「せんごく」ではなく「ちこく」としたらしい。「チコク」と「ジッコク」は音が似ているから「ちこく」に抵抗は少なかったのでしょう
みなと 久慈川の河口部分が1980年代に埋め立てられてつくられた地区

以上の新しい町名をつけた由来については、町名を定める際の審議会の記録を読めばわかることなのだろうが、そこまで調査する時間がないので、およそ筆者の見当で書いておきました。したがって、この項については、そういうふうに読んでほしい。

旧村名に東西をつけた

西成沢・
中成沢・
東成沢
成沢は6号国道と市道の通称大学通りとによって、東西に3分割できたので、きれいに並んだ。西成沢と中成沢には日立製作所のアパートと従業員の一戸建て住宅がたちならぶ
東滑川 西・中滑川はなし
東多賀 西・中多賀はなし。この地区は河原子。西河原子ならわかるのだが
東大沼 西・中大沼はなし
東金沢 かねさわ。西・中金沢はなし

こうしてみると、東が圧倒的に多い。西に古い集落(本村)があって、現代に入って東に向かって住宅地や工場用地の開発が進んだ、ということかもしれません。

旧村名に本をつけた

滑川本  滑川はまぎらわしい地区である。滑川町と滑川本町と東滑川町とに分けられた。本町という呼び方は滑川村にはなかった。滑川本町はいきすぎか

明治22年の町村制の町村名を一部の区域に復活した

日高 日高町はかつては小木津村の区域。小木津は、小木津町・日高町・相田町の三つに別れた。町村制の村名である日高をとったこともあるだろうが、この地区に日立電線日高工場があったので、工場名もいくぶんかは決定にあたって影響しているかもしれない。ちなみに日高村は小木津村の他に田尻村を含む
鮎川 これは前述した

字名をとった

大みか 大甕神社の東に大甕(おおみか)という字名があるが、この地とは離れた地区につけられている。大みか町はJR大甕駅の東にひろがる一帯をさす。甕という文字が常用漢字になかったので、大みかという表記になったのだろう。大甕は難読地名として知られている。大みかという表記では甕の意味がわからなくなってしまった。残念なことである。
みかの原 みかの原という字名はない。新しい地名。民間住宅分譲会社がつけた団地名がそのまま町名に採用されたものと思われる。ちなみに、甕の原(みかのはら)とは別地区。甕の原は水木村内にあり、みかの原は森山村内にある
台原 大沼と森山にまたがって台原という字がある。日立市が開発・分譲した新しい団地。その名称が残った
かみあい 古くから漢字表記で「上合」。田尻村内の字名
塙山 「はなやま」とよむ。金沢村内の字名。かつて日立製作所の塙山社宅があり、その山の手に日立製作所系列住宅分譲会社の団地が造成されたが、その団地の名称も同じ
相田 小木津村の一字。『常陸国風土記』にある「飽田」に比定される

わからない、とずいぶん書きました。知っておられる方がいたら、お知らせください。

字名と小字名 … 江戸時代には村内の小地名を字名といっていました。田尻村字上合といったぐあいに。1899年(明治22)の市制町村制以後、旧村を大字とし、小地名を小字とした。そして表記は、たとえば、日高村大字田尻字上合といったふうにです。

蛇足をもうひとつ。日立市域でのことですが、小木津をどう読むか。「おぎつ」が普通でしょう。「ぎ」は鼻濁音で。JRの小木津駅も「おぎつ」とある。多木が「たき」ではなく「たぎ」と読むように。中世にこの地方は「荻津」とされてたことからも「おぎつ」なのでしょう。しかし「おきつ」という読み方も日立ではあるのです。日高は「ひだか」だが、この地区では「ひたか」と読むことが多い。通常なら濁るところを濁らないのです。○年頃は「○年ごろ」だが、日立地方ではしばしば「○年ころ」と濁らないで言われるし、「○○づくり」も「○○つくり」と発音され、その通りに表記されることがしばしばである。

ついでに「日立」の読みですが、「産後の肥立ち」「旅立ち」「泡立ち」…は、「だち」とみなさんは読みますね。日立製作所日立事業所内にある「小平記念館」に展示されているモーターの設計図面に「HIDACHI」としてあるものがありました。日立製作所出身の日立市長高島秀吉(兵庫県姫路出身)は、日立を「ひだち」と言っていたと当時の部下だった人は話してくれました。

ですから、地名にふりがなをといわれると、とてもつらいのです。