日立市域の八景

笹谷康之ほか「常北における八景」『造園雑誌』52巻5号(1989年)

坂下八景 泉川の叢祠 瀬谷山の桜 児島の郡雁 大橋の漁舟 久慈の遠帆 大森の紅葉 釈迦堂の月 十八道の雪  [江戸期成立]
久慈八景 釜坂の夜雨 寺山の晩鐘 三反田の落雁 鉄砲場の晴嵐 千福寺の帰帆 離山のタ照 大石倉の秋の月 天王山の暮雪  [大正・昭和期成立]
河原子八景 孫沢の夜雨 那知の晩鐘 田名保の落雁 梶沢の晴嵐 津宮の帰帆 日向のタ照 新地の秋月 東福寺の暮雪  [江戸末成立]
大久保八景 勝嶺の青松 故城の乱蛍 南径の樵歌 前村の炊煙 港浦の帰帆 奥路の旅人 東海の新月 孫田の耕雲  [明治期成立]
諏訪八景 泉水 梅林 曙山 四ヶ峰 達摩湯 水穴 普賢(厳)岩 塀風獄
会瀬八景 七タの会瀬 鵜島の釣漁 港内(港中)の泊船 伊勢崎の松 端崎の砂山 女夫の瀑布 坊崎の常雫 御山の涼風  [江戸時代成立]
滑川八景 烏沢の夜雨 海雲山の晩鐘 小幡の落雁 館跡の晴嵐 清水の帰帆 北釜のタ照 田島の秋月 六所の暮雪  [江戸末成立]
田尻八景 田尻の夜雨 度志山の晩鐘 前田の落雁 大田尻の晴嵐 栄蔵小屋の帰帆 鮫穴の奇岩 裸島の秋月 種殿神社の暮雪  [明治期成立]
川尻八景 蚕宮の避暑 水門の帰帆 松崎の仙郷 不動の御崎 筈磯の漁火 川尻の二見 御番山の月 小貝の潮干  [明治期成立]
東河内八景 石ヶ峰の夜の雨 玉簾寺の晩鐘 中島の落雁 高橋の晴嵐 里川の帰帆 井戸久保のタ照 高山の秋の月 京田の暮雪  [成立時期不詳]
[参考]
水戸八景
青柳夜雨 山寺晩鐘 太田落雁 村松晴嵐 水門帰帆 巖船タ照 広浦秋月 仙湖暮雪  [天保4年成立]
[追加]
櫛形八景 桜町の夜の雨 友の宮の帰帆 山の尾の秋の月 高田の落雁 串形の晴嵐 大湖山の晩鐘 風早の夕照 松崎の暮雪  [江戸時代ヵ]
*中川庸雄「櫛形八景」『会報郷土ひたち』第48号より
久慈九景 釈迦堂の月 大橋の漁舟 十八道いしなざかの雪 瀬谷山の桜 大森の紅葉 泉川の叢祠 久慈の遠帆 兒島の群雁 田中内のみぞれ[元禄6年10月成立]
*大森林造『義公漢詩散歩 常陸の巻』より。十八道は石名坂。兒島は現在は留の一部

水戸八景はじめ○○八景については、ホームページがいろいろとあり、紹介されていますので、そちらをみてください。もちろん笹谷さんの論文は貴重です。手に入りにくいでしょうが(国会図書館にあるはずです)、参照ください。

地域名、たとえば東河内は、当時の村名です。つぎに八景に読まれているのは、字名(小字名)です。原則はこうです。ですが坂下は久慈川下流域左岸の低地の村々をひとつにして言うときに使われ、村名とは限りません。字名部分についても同様です。

個々の八景の表記について、たとえば東河内八景は水戸八景と同様にかつては「石峰夜雨」や「玉簾寺晩鐘」「中島落雁」などと表記されていたものと考えられます。現在ではわかりやすいようにという配慮なのでしょうか、丁寧に「の」を入れているようです。そのうち「常陸国」が「常陸の国」と表記されるのでしょうか。

[追記]

  1. 1 会瀬八景については、鈴木彰『日立の歴史と伝説』(1941年)が詳しく書いています。
  2. 2 河原子八景については、萩原明子「もうひとつの河原子八景」『ひたちの文化』第246号(2022年4月)が、明治末の石川帰鶴(部平)撰による八景の内容と成立事情を詳しく述べています。
     それによると河原子には三つの八景がある。江戸末、明治初期、そして明治末。明治初期のものは神官宮田破魔太郎。明治末の石川はさらにそれぞれに歌を詠んでいる。歌もあって、選者がわかるのは珍しい。