作曲家・吉田正年譜

相田公平 編

西暦
和暦
年齢 事 項
1921
大正10
0歳 1月20日、茨城県多賀郡高鈴村助川(現、日立市鹿島町1丁目2122)に吉田洗濯店を営む父一三郎、母タニの第七子、三男として生まれる。
1927
昭和 2
6 4月、助川尋常高等小学校に入学する。小学校時代の吉田は、腕白小僧で通っていて、上級生も手下にしていた程であった。また「六年生のとき、留守になる音楽の先生に、代理を命じられて自分でオルガンを弾きながら、同級生に歌を教えた」と回想しているように、早くから音楽に才能を示している。音楽のみならず、成績も上位を占めており、名門、県立水戸中学校(現、水戸第一高等学校)への進学も考えていた程であった。(私の履歴書)。
1935
昭和10
14 3月、助川尋常高等小学校を卒業する。4月、日立工業専修学校本科・機械科(全寮制)に入学する。
1936
昭和11
15 この年、専修学校の寮を出て自宅から通学する。
1937
昭和12
16 この頃から、隣家に住む相田政夫宅に出入りして、一緒に、今でいうグループサウンズを楽しむ。
1938
昭和13
17 3月、日立工業専修学校本科を卒業する。
この年、母タニを失う。
この頃、作曲にも興味を示し、音楽雑誌「歌の花籠」の作曲の頁に投稿し入選している。
〈「歌の花籠」は、新興音楽出版杜が国民音楽雑誌として、昭和13年7月に創刊したもので、歌謡曲、クラシック音楽と幅広い内容をもっており、藤原歌劇団の公演舞台、三浦環のポートレートなどもグラビアを飾っている。
当時、作曲の頁は、田村しげる(昭和期の作曲家。武蔵野音楽学校卒業。代表作「白い花の咲くころ」)が担当していた〉
1939
昭和14
183月、専修学校研究科を卒業する。
4月、上京して増成動力工業(株)に入社する。会社の独身社員寮に住む。この上京の理由については「本来は、技術屋であったが、機械から離れて音楽で生活したいという思いがおぼろげながらあった」と言っている。
このころ、日本交響楽団(現NHK交響楽団)員の風間滝一に師事し、約一年半の間、作曲の基礎を学ぶ。
また、声楽家小林千代子の知遇を得る。
1942
昭和17
211月、現役召集、水戸陸軍歩兵第二連隊に入隊する。
3月、満州国黒河省江嫩に移動。軍隊生活の中で再び作曲を試み、その中からかねて面識があり、当時奉天の放送局の音楽部長をしていた米山正夫(昭和期の作曲家・作詞家、東洋音楽学校卒。代表作ラジオ歌謡「山小屋の灯」「森の水車」)の好意により、いくつかの曲が奉天放送局から放送される。
1943
昭和18
22 8月、盲腸炎で軍の病院に入院する。ベッド生活の中で作詞・作曲した「昨日も今日も」が、歌詞は変えられてはいるが「異国の丘」である。
〈"昨日も今日も" 今日も越えゆく山また山を 黒(青)よ辛かろ 切なかろう がまんだまってろ あの嶺越えりゃ 甘い清水を汲んでやる〉
1946
昭和20
24 7月19日、第二次世界大戦による空襲によって、日立市の実家も被害を受け、父一三郎(亨年74)、兄計司(亨年46)、義姉ヒサ(享年41)、甥昭(享年18)、甥勝栄(享年9)を失う。
10月、終戦と共に、ソ連邦シベリア地区に抑留される。抑留生活の中で、作曲を続ける。
当時の思いでを、大宮町出身の吉田徳次さんは、
〈先生との出会いは、ハバロウスクでの懇親会演芸での時でした、北廉太郎の芸名で出演、歌の上手な下士官もいるものだと驚きました。常に元気を出して生きて帰れと励ましてくれ、芸能部長として数々の作曲もし、私たちに生きる希望を与えてくれました。〉(抜枠)と、"県民の声"に投稿している。(『いはらき』新聞 平成元年9月10日)
1948
昭和23
278月、舞鶴港に復員。郷里日立に帰り、復員手続きを済ませたあと、神奈川県に住む姉千代乃の家に身を寄せ、増成動力工業(株)に復職する。
11月、「NHKのど自慢素人演芸大会」で度々耳にした「異国の丘」の、作曲家をNHKが探していることを知って届け出て、作曲者と認定される。
〈この「異国の丘」が日本で初めて披露され流行した陰には、次のようなエピソードがある。
「あの曲を楽譜に書き、戦友に歌わせたのは、実は私です」。と言うのは、直木力(水郷汽船KKの杜長。幼少からヴァイオリンを習い、京都大学のオーケストラでは第一ヴァイオリンの主席奏者)である。復員後、直木の書いた楽譜で中村耕造が歌った「異国の丘」は、全国的に反響を呼んだのである。(在京県人物語220—吉田正と直木力—『常陽新聞』昭和年52年9月1日)〉
1949
昭和24
28 4月1日、日本ビクター(株)に専属作曲者として入社する。「流れの舟唄」(竹山逸郎唄)が、入社後初のヒット賞を受ける。
この年、服部正に師事し、編曲を学ぶ。
1951
昭和26
30 5月、加藤喜代子と結婚する。
1953
昭和28
32 5月、「街のサンドイッチマン」は、都会の哀歓を盛った鶴田浩二の歌。「落葉しぐれ」は、三浦洸一のプロとして出発した最初の曲。などが発売される。
1955
昭和30
34 この年、「赤と黒のブルース」(鶴田浩二)が都会派歌謡曲と名付けられる。
1957
昭和32
36 11月、「有楽町で逢いましょう」(フランク永井)がヒット、代表作となる。
この年、母校日立工業専修学校の校歌を作曲する。作詞は後輩の秋山信。
1958
昭和33
37 8月、「泣かないで」を和田弘とマヒナ・スターズが歌い、ムード・コーラスの元祖と言われる。
1960
昭和35
397月、「潮来笠」で橋幸夫デビュー。この曲で、股旅ものに新境地を開く。
12月、「誰よりも君を愛す」(松尾和子〉が、昭和35年度第2回日本レコード大賞を受賞する。
〈同賞は、アメリカのグラミー賞を参考に、日本作曲家協会が設定したもので「作曲を通じ芸術性、独創性、企画性が顕著な作品であり、優れた歌唱によって活かされた作品で、大衆の強い支持を得た上、その年度を強く反映、代表したと認められた作品に対して贈られる(作詞・歌手を含む)」もの〉
1962
昭和37
41 この年、「いつでも夢を」(橋幸夫・吉永小百合)が、昭和37年度第4回日本レコード大賞を受賞。
1968
昭和43
47 12月、昭和43年度第10回日本レコード大賞特別賞を受賞する。
〈同賞は、「社会的に世の中を賑わせ、注目された人、作品などに贈られる」もの〉
1969
昭和44
48 4月、昭和43年度第19回芸術選奨文部大臣賞(大衆芸能部門)を受賞する。
〈同賞は、「芸術のさまざまの分野において優れた業績を上げた人、あるいはその業績によってそれぞれの芸術分野に新生面をひらいた人を選奨し、その人と仕事を顕彰する」もの〉
1970
昭和45
49 この年、胃潰蕩で倒れ、第一線を退く。
1971
昭和46
50 この年、昭和49年度第16回日本レコード大賞中山晋平・西条八十賞を受賞する。
1975
昭和50
54 この年、広島平和音楽祭実行委員長に就任する。
1978
昭和53
57 9月23日、NHKラジオ第1放送で"皆んなの茶の間”「青春の回想」が放送される。聞き手は小島美子(日本音楽の研究家)。
この年、NHKテレビ・ビッグショウで「異国の丘」を自身で歌う。
また、昭和53年度第20回日本レコード大賞実行委員長に就任。
この年、昭和53年度第20回日本レコード大賞20周年記念顕彰を受ける。
1980
昭和55
59 この年、日本作曲大賞審査委員長に就任する。
1982
昭和57
615月、(社)日本作曲家協会理事長に就任する。
11月3日、昭和57年度紫綬褒章を受章する。〈同章は、芸術上の創作などについて、事績著明な者に授与される褒章〉
1983
昭和58
62 この年、(財)古賀政男音楽文化振興財団理事長に就任する。昭和60年まで。
1985
昭和60
64 7月3日、日本経済新聞に「私の履歴書」の連載を始め、7月31日まで29回に及ぶ。
1986
昭和61
65 4月22日、日本音楽作家団体協議会々長に就任する。昭和63年3月31日まで。当協議会は、音楽作家の団体、13団体の取り纏め役。
1989
平成元

68
10月、(社)日本音楽著作権協会会長に就任する。
1990
平成 2
69 12月、日本レコード大賞功労賞を受賞する。〈同賞は、「長年にわたり音楽活動を行い、音楽界に大きな貢献をされた人に贈られる」もの〉
1992
平成 4
714月28日、勲三等旭日中綬章を受章する。
8月31日、作曲家生活45周年記念パーティーが開かれる。
1993
平成 5
72 3月22日、平成4年度第45回NHK放送文化賞を受賞する。
〈同賞は、「日本人に愛される歌を数多く作曲して視聴者に感動を与えるなど音楽番組の充実に貢献した者」に贈られるもの〉
5月、(社)日本作曲家協会会長に就任する。
1995
平成 7
74 8月12日、NHKテレビで「思い出のメロディ戦後50年、作曲家吉田正が語る・異国の丘、外」が放映される。
1997
平成 9
76 10月、作曲家生活50周年記念パ一ティーが開かれる。作曲家生活50年にあたって吉田は、次のような詩を作っている。
    "名もない男の詩(うた)"
名もない男の 名もない詩を 巷の風が歌っている 男ごころに散りばめた 夢も望もあったのに それをこわしていったやつ にくいそいつは戦争だ だからみんな聞いてやろうよその詩を 名もない男の名もない詩を なにも知らずに書いていた頃がおれにゃあ一番花だった 夢をみながら飲む酒ならば なんでにがかろいまの世に 思い出してるカウンター
どこに消えたか女の答え 今日は見知らぬ顔ばかり 後向かずにただ前向きに 生きていたっけあの頃は 明日が来るのが嬉しくって
           吉田正
(平成9年9月23日・NHK歌謡コンサートでの吉永小百合朗読)
12月、(社)日本作曲家協会名誉会長に就任する。この年、(社)日本音楽著作権協会功労者賞を受賞する。
1998
平成10
77 6月10日、永眠する(享年77)。遺骨は茨城県十王町の法鷲院に納骨される。戒名は「賓金剛院殿音密生大居士」。
6月、従四位に叙せられる。
7月7日、「戦後の歌謡史に新しい流れをつくり、国民に夢と希望と潤いを与えた」ことにより、国民栄誉賞を受賞する。作曲界では故古賀政雄、故服部良一に続いて三人目。
12月7日、日立市名誉市民として顕彰される。
12月、日本レコード大賞に吉田正賞が設けられる。
〈同賞は「吉田正氏の偉大な業績を記念し、伝統的な日本の歌を充実させ、前進させた作曲家」に贈られるもの〉
1999
平成11
9月11日、日立市制施行60周年記念事業「吉田正メモリアルコンサートプレイベント」(メモリアルコンサート実行委員会他・日立新都市広場〈パティオ日立〉)を昼夜2回開催する。9月17日に開催されるメモリアルコンサートの市民プレイベント。
9月17日、「いつでも夢を・吉田正メモリアルコンサート一吉田正音楽記念館建設に向けて一」(日立市・日立市民会館〉が昼夜2回開催される。橋幸夫、三浦洸一、三田明らが出演。また、ゲストとして喜代子夫人、シャンソン歌手深緑夏代、作詞家岩谷時子が思い出を語る。
2000
平成12
9月22日、「吉田正メモリアルコンサートII」(日立市・日立市民会館)が開催される。昨年から開催されているメモリアルコンサートのパートII前回同様、昼夜2回開催される。橋幸夫、由紀さおり、三浦洸一らが出演。また、ゲストとして日本作曲家協会会長船村徹、日本作詞家会長星野哲郎、喜代子夫人が思い出を語る。
2001
平成13
3月31日、財団法人日立市民文化事業団から、日立市民双書「生命ある限り一吉田正・私の履歴書」が出版される。
6月24日、「吉田正メモリアル音楽祭本選大会」(日立市・日立市民会館)が開催される。本選には応募者193人の中から1次、2次予選を通過した33人が出場。最優秀賞には「潮来笠」を歌った岩井市小島かよ子さんが選ばれる。
9月24日、「吉田正メモリアルコンサートIII」(日立市・日立市民会館)が開催される。この年で3回目を迎えるメモリアルコンサートのパートIII。昼夜2回公演。橋幸夫、三田明、三浦洸一らに小島かよ子が出演する。
2003
平成15
8月3日、吉田正記念館オープンプレイベント「みんなDEライブ2003」(日立市・かみね公園)が開催される。故吉田正を顕彰する記念館が、翌春4月、同市宮田町・かみね公園頂上にオープンするのを記念して、同園仮設野外演奏場で開かれたもの。バンド、グループなど10組が出演する。
2004
平成16
2月12日、音楽記念館の開館に先立ち、同館に展示するため遺品約500点が、吉田家(代理、元西武ライオンズの豊田泰光ほか)から日立市に寄贈される。
4月27日、吉田正音楽記念館の開館記念式典が、雨のため日立ゴルフクラブで開催される(テープカットは同館)。式典には、喜代子夫人ら遺族、樫村千秋日立市長、橋本昌知事ら地元関係者のほか、船村徹日本作曲家協会長、星野哲郎日本音楽著作権協会長ら音楽関係者、さらに歌手橋幸夫さん、三田明さん、吉永小百合さんらの門下生ら約200人が出席した。樫村市長が「記念館は命を吹きき込んだ作品のメッセージを後世に伝える目的で建設した。吉田メロデーを堪能し、日立市に新たな魅力をもたららす施設として広域的な交流が促される」と式辞を述べた。続いて喜代子夫人に名誉館長の委嘱状が手渡された。夫人は「夢と希望と安らぎのシンボルとして、新しい音楽の発信地にもなり、一人でも多くの音楽人が巣立つこと願う」と挨拶した。
記念館は5階建・延床面積800平方メートル、総工費5億9千万円(うち2億5千万円は遺族の寄付)。一階にミニコンサートが可能な、スタジオ(約30平方メートル)や屋外ステージを備えているほか、二階では吉田氏の生涯を映像で紹介している。
4月29日、吉田正音楽記念館が開館する。

2004年4月30日

故吉田正氏を悼んで

相田公平 茨城県合唱連盟会長

日立市に生まれ、「異国の丘」や「有楽町で逢いましょう」などのヒット曲を次々とつくってこられた作曲家吉田正さんが6月10日、77歳の生涯を閉じられました。若き日の吉田さんを身近に知る私にとって、その悲しみはひとしおのものがあります。

私の長兄(相田政夫・故人)は戦前の青春時代、吉田さんと一緒にバンドを組む音楽の仲間でした。吉田さんは自分より4歳年上の兄をマーちゃんと呼ぶ仲で、少年時代の私は、その交友ぶりを垣間見ながら育ってきました。当時すでに吉田さんは、楽器もこなすし、音楽雑誌の作曲欄によく入選もしていました。明るい人柄で、美声の持ち主でもあり、音楽的な才能には早くから恵まれていたように思います。

戦後になって初めてお会いしたときは、もうすでにプロ作曲家として出発されていました。青年期を迎えた私はその際、「音楽をやるなら、しっかり勉強しなさい」と励ましの声をかけてもらいました。

その後、都会の哀感をこめた初期の作品から、やがて都会派と呼ばれるシャレた曲趣の吉田調が生まれ、吉田学校と称される人づくりを進める一方で、ご自分の新しい発想を結実させていったように思います。

その手法は、曲が先行するのでなく、歌手一人ひとりのキャラクターを実に見事にひき出しながら、一体となって生みだしていく点で、戦後の歌謡界の一典型と言えました。

「戦地で声をつぶしてね……」と、兄たちに残念そうに話をしていた吉田さんを思うにつけ、ご自分の声楽への果たせなかった夢が、多くの歌手をはぐくむことにもなったように思えてなりません。

先日、テレビの追悼番組で、「異国の丘」を自身で歌っているのを初めて見ました。多分、大病をされた後の録画だと思いますが、ほおがこけて痛々しい感じがしました。しかし、しっかりとした音程で感情込めてきまじめに歌っていました。おそらく、シベリア抑留のころを思い、内地の土を踏むことの出来なかった戦友たちをしのんで、万感胸に迫る思いだったのでしょう。

吉田さんの功績を挙げればきりがありません。戦争という悲劇の明暗を心に負いながら、生きていることに感謝しつつ、生涯、大衆音楽を書き続けることを天職としてきた吉田さんに、国民栄誉賞が授与されることは、何よりの報いです。心よりめい福を祈ります。

『朝日新聞』1998年7月7日