砥石づくり
私の親が経営していた砥石山からは、諏訪の家なみが見えるんです。家から歩いて40分ぐらい、途中で休んだりすると1時間はかかる堂平というところの国有林のなかにありました。
私は高等小学校をでるとすぐ親の代りに砥石づくりの監督に堂平の山に行かされました。そのころは、ほかに数人の事業者が砥石を掘りだしていて、私のところには二、三十人ぐらいの人が勤めていました。監督代理といっても、当時はまだ小僧ですから出勤簿をつけるとか、大人たちの手伝いをするだけです。
露天で掘りだした原石は、その場で鋸やイシヨキ、メキリという道具を使って製品に近い大きさに仕上げてしまうんです。大きさによって砥石の用途も違います。3貫500匁から7貫の重さのものは、きりこ(切子)といって専売局からまとまって定期的に注文があります。それは葉煙草を切る包丁を砥ぐのに使われるらしいんです。この仕事は利益がありましたね。
それから500匁のものは道具砥といって、大工さんがかんなやのみを砥ぐのに使う。その下は鎌砥という100匁から200匁のもので、一般家庭や農家で使われるものです。
ある程度山のなかで仕上げられた砥石は、一回に30貫ほど積んで私の家まで馬で荷下げするんです。そして家の前を流れる川の水を使って、表面を荒砥で磨いて完成です。これらは注文に応じて下孫駅(常陸多賀駅)から発送します。この地区一帯から採掘される砥石は助川砥と呼ばれて有名だったんですよ。
道具砥と鎌砥が一番需要が多いんですが、春さきに注文が多くありますね。農家ではやはり春さきから仕事を始めるせいでしょうか。注文主はそれぞれの地方の大きな雑貨屋さんで、東北各県や茨城県の北部からの注文が大半でした。私の家で雇っている人は、みな地元の諏訪や油縄子、成沢の農家の人たちで、農業が忙しいときには休んでいましたね。砥石づくりのうち、石を掘り起こすのは素人でもできるんですが、石を切って形を整えるのは熟練した者でないとできないんです。ところが大正もなかばをすぎ日立鉱山や諏訪鉱山が盛んになると、その人手を鉱山へ持って行かれてしまうんです。これには困りました。
そのためいろいろ調べた結果、石油発動機を買ってきて、石を切るのを人力から丸のこの動力に替えました。能率は上がりましたね。それから荷おろしを馬から人力の土そりにかえて、一回に運ぶ量を80貫ぐらいに増やしたりもしました。
砥石づくりの経営で重要なことは、質のよいものを出す山を探すことで、私はいい山を見つけることができたうえ、不景気や戦争の影響をあまり受けず、失敗もなくやってこれました。しかし歳もとって山に登るのもつらくなり、十数年前に成沢の黒沢文雄さんに採掘の権利をゆずって、砥石づくりはやめました。
聞きとり 1983年6月20日
日立市郷土博物館『市民と博物館』第14号(1983年7月)
[註]『日立市郷土博物館紀要』第4号に掲載された「聞き書き 朝日忠蔵 砥石山の経営」を要約したものです。