田手沼松並木の思い出
私が物心がつくのは大正のはじめごろですが、そのころの田手沼の道路(6号国道)は、いまよりもっと急な坂道で、家はぼつんぽつんと数えるほどしかなく、一面麦や大豆をつくっている畑がひろがっていました。そして、道路の両側には松並木が高々とそぴえ、鬱蒼と道路のうえの空をおおっていて、道路は昼も暗くて、とても恐かったですね。
松並木の根張りは、道路よりあがっていて、道路はちょうど土堤にはさまれて続いているようなありさまで、しかもそのきわは、ずっとヤブで、カヤやススキが子どもの頭のうえに垂れさがるように生い繁って、そりゃもう、さぴしいものでしたよ。人通りもほとんどなく、人さらいやおいはぎがでる話をきかされることもあり、また、いまの馬力神の碑のところにあったお不動さんには、こじきが住みついて、ほんとうに気味悪かったですね。
お不動さんといえぱ、年に2度、6月と11月におまつりがあり、楽しみのひとつでした。子どもら士が町内をまわって、家ごとに米を1〜2合ずつもらい、世話人に正油飯のおにぎりを夜食に作ってもらって、夜遊びの行事をしたもんです。いまの日製病院の南側にある弁天さんのおまつりも、収穫のまつりですが、冬11月、あずきがゆがでるので、これまた楽しかったですね。
弁天さんの水は、田の用水ばかりでなく飲み水にも使われましたが、飲み水はこのほかにも、沢山からの水が、いまの小塚商店の道向かいのところに引かれ、そこから道路際を流れていて、それを使ったもんです。
やがて、兎平に日製の社宅がつくられるようになると、大久保や池の川などから、農家のおかみさんらが、荷車をひいて野菜売りにくるようになりますが、おかみさんらが、その流れの水で汗やほこりをふいたりのどをうるおしたりして休む茶店が2、3軒でき、馬車ひきなども休んだりして、けっこうはやるようになりますが、それでもまだ、写真にみられるようなたたずまいでした。
日立市郷土博物館『市民と博物館』第5号(1979年)