会瀬青年会
明治末期に発会したと伝えられている会瀬青年会の歴史をお話するとき、まずはこれを支えた会瀬漁業と地域との密接な関係について触れなければなりません。明治後期までの会瀬漁業は鰹の大漁で賑いましたが、大正の初期から多くの若者がメキシコヘ渡るようになります。なぜかといいますと、このあたりは飽の産地でしたが、飽は権利の所有した者のみが採れるものであり、特に目立った産業もないこの地域で水産関係の次男、三男がメキシコに渡ったようです。大正一二年には五二人の若者が渡っており、当時の日記に「まるで会瀬が引っ越してきたみたいだ」と記されています。当時の会瀬は約二〇〇世帯前後ですから、ムラに若者がいなくなってしまう状況が起こります。このような背景をふまえて昭和二年に現在の会瀬が定まる転換期が訪れます。
昭和二年頃までの会瀬漁業は良好な漁場を抱えているため動力化が進まず、このため久慈浜や河原子から大きく立ち遅れていってしまいました。そこへ富山県出身で国内屈指の漁業家阿部彦次郎氏による定置網漁業の開設という出来事が起こります。しかしこのときには青年の動きはありません。会瀬にはこの進出を止める数だけの青年がいなかったのでしょう。定置漁業は長く続いて戦後の三〇年代になって会瀬の人々の経営になりますが、ようやく定置漁業が地域産業化したということでしょう。
次に昭和二年から始まった日立製作所の用地買収があります。小さな漁業というのは半分が農業、半分が漁業ということで成り立つものですが、村の約半分が日立工場の用地となります。用地の提供により工場に勤めることができた青年も簡単な作業や雑役しかないわけで、いずれやめるほかないのです。
昭和二年前後にメキシコの会社が倒産して若者たちが帰り始めますが、そのときには農業をする土地がきわめて少なくなるわけです。ですから漁業もできないことになります。ここでも青年層は動いておりません。
さて会瀬の青年会ですが、そもそもは会瀬鹿島神社に寄与する若衆制度という組織が母体となって変化したものです。この制度は会瀬に住む若者たちを集落単位に『和泉若』と『浜若』とに分けた組織で、一六歳から四二歳までの男子によって祭りたびごとに組織されていましたが、一八になる以前の役目は寄り合いの料理を作るとか酒の澗をするとかの下働きで、足袋や羽織の着用は許されていなかったようです。しかし地域には『三代住まなければ会瀬の人になれない』という言葉があったように、この若衆組織には間借り人とか地域に流入した若年労働力とかの人たちはいっさい参加できず、かなり閉鎖的な強制力をもつ組織だったようです。明治時代の末期になると国策によって若衆制度から近代的な青年運動への転換をせまられました。その若衆制度がその形を残しながら、神社と目的を別にした漁業に関する海難救助組織を誕生させます。会瀬水難救済団といって明治四五年五月五日に発足しており、後に助川町青年団の一翼を担う助川町青年団会瀬支部となり、現在の会瀬青年会へと変化していきます。
現在残されている会瀬青年会のもっとも古い資料は昭和二年の会瀬青年会主催第九回運動会のプログラムです。それから逆算すると会瀬青年会の発会は大正八年以前だという推測が生まれます。これに村内の出来事を合わせてみると、大正四年は後に衆議院議員となる大内竹之助が初めて会瀬の地から村議に立候補しており、大正八年は二期目を迎える選挙の年であります。後の会員と彼の関係を考慮したとき会瀬青年会の発足と大内氏の村議立候補は無縁でなかったと考えています。
昭和初期の活動を会計帳簿から見ると、塵芥整理作業を中心に夏の海の見張り、日鉱や日製のなどの休憩所の割り振りなど海に関する仕事を資金源として活動しています。運動部が盛んで、相撲部は日鉱相撲部や大学の相撲部と交流して国体にも出場しています。文化面においては弁論活動が盛んで、県の青年団連盟の中で橋本登美三郎や五来欣造と非常に強いつながりをもっていました。
昭和初期に建設された青年会館は、メキシコからの寄付を基金に青年たちの献身的な奉仕活動により建設されています。この建設にあたっては男子会員は土木工事を行ない、女子会員は砂や砂利を集め、毎晩夜中までやったようです。この女子青年会の資料はわずかですが、昭和一四、五年の記録が残されており、病院の慰問、料理の講習会、出征兵士の慰問、武運長久祈願七社参りなどをしております。
会瀬青年会の発足当時について話しましたが、会瀬青年会の歴史と地域に果たした役割を大きく分けると、昭和初期、青年会黄金期、太平洋戦争期、戦後復興期、市民運動消滅期、新生青年会とに分けられます。戦後は日立復興祭を足掛かりに市民の民主化を担うことになりますが、昭和三〇年代後半になると指導者不足から一時休会していくことになり、昭和四九年に再開して現在に至っております。
明治からの会瀬青年会の置かれた環境はそのまま日本全国の青年の置かれた役割そのものではないかと思います。兵を養うための国策で誕生した青年会組織も時代の役割を終えつつあり、日立市にただ一つ残る組織となってしまったのは残念です。
『日立の現代史の会通信』第17号 1990.4.7