本山あれこれ 中正校友会

加藤 正一

私立日立鉱山本山乙種夜学校の卒業生(中途退学者を含む)および在校生で組織された会が、中正校友会である。大正13年4月、本山尋常高等小学校で発会式を、出席者一人当たり会費20銭で盛大に行った、との資料がある。

会の目的は会則によれば大正12年11月10日発布の「国民精神作興に関する詔書」の趣旨を奉戴し、質実剛健勤倹力行の美風を涵養し、校友の友誼を厚くする、とある。

会の事業(行事)として、書籍の回覧、会報の発行、相互の通信、演説、討論、余興、遠足、運動会と、会則で定めている。

現在残っている若干の資料からこれらについて拾いあげてみる。

回覧あるいは購読斡旋の書籍、雑誌は、修養段叢書第一輯「修養団の精神」「新語新知識」「新聞経済記事の見方」「覚醒」「礎」が記録されている。

会報はガリ版の十周年記念号1部のみが現在残っている。巻頭言、随筆、随想、俳句、短歌などの投稿で、これらから当時の世相を窺うことができる。また十周年記念として、会員に松岡洋右の「日本孤立せず」を配布、記念事業として本山、諏訪の山神社に苗木を奉納した、とある。その他では、北満チチハル歩兵59聯隊泰安機関銃隊からの会員の投稿と書簡が掲載されている。

生きて戻れば家門の誉 骨で戻れば国の神

投稿の一句である。隔世の感慨一入である。

規則外の申し合わせ事項として、会員入退営の際は、会旗をもって送迎するとあり、徴兵義務の時代を彷彿させる。

演説、討論、余興は、総会あるいは祝祭日の集会時に行われたようである。

昭和2年明治節5分間辨論の時の演題はつぎのとおり。

目的、人生の前途、完全食に就いて、責任を重んぜよ、北樺太視察、希望、運、最初が肝腎、新しい男と女、入営

それぞれ弁士の氏名欄と採点欄らしいものが記された表が残っている。討論のテーマは、寒いと暑いは処方か、健康か貯蓄か、があるだけで、内容其他は不明である。

余興についての記事は一切なく、式次第に余興(終了後福引)が記されている。余興と福引は集会には必ず行われていたようである。

遠足は平磯、大洗、湊、玉簾、西山荘、磯原、勿来方面に出向いたときの会員に配布したガリ版刷りのしおりが残っている。

つぎに昭和2年6月5日の中正校友会修学旅行の概要を紹介する。

見学コースにある本社とは、当時の久原鉱業株式会社本社のことである。ここで会員はおそらく昼食、茶菓の接待にあずかったことだろう。

6月とはいえ、昭和2年の一の鳥居から大雄院までの道路は道幅も狭く、現在の福田饅頭店附近は杉の古木が林立していて、白昼でも薄暗いところだったはず。おそらくは提灯かカンテラを灯して往復したのではなかろうか。徒歩であの道を40分から50分、早朝のことだから、鉱山電車の貨車便で、ガツン、ガツンと揺られて、さらに三等便で4時間余、それから9時間の各所巡り、その日のうちにまた上野駅から…。

難行苦行の日帰り東京旅行である。

運動会についての詳細な記述はない。ただ、小学校と日を同じくして開催していた時期もあったようである。

明治42年9月日立鉱山夜学校開校(大正8年12月甲種夜学校と改称)。

大正8年12月日立鉱山夜学校開校。

夜学校の教科、課程についての記述もあるが、年月日の記入が判然としないので、正確なことはわからない。

開校当時、甲種については当時の小学校課程の尋常科5、6年から高等科。乙種については尋常科1〜4年程度と推定する。それもいわゆる読み書き算盤に社会道徳(修身、講話と記載されている)の教科に重点が置かれたようである(甲、乙種とも初めは2学年制)。

一日の勤務を終えてから、週6日、毎日2時限の3時間の授業、教師には鉱山の中等学校卒業以上の所員(社員)と小学校の正副校長級のかたがたがあたられたようである。

生徒に年齢の制限はなく、また入学は随時で中途退学者の復学も認められていた。

生徒の中には、重筋労働職場の人もおり、年齢的には親子ほどの開きもあり、欠席が多いときもあってか、通学精勤会が結成された時期もある。

参考までに大正14年度の授業日数は、245日。これに対し、最多出席日数233日の生徒名が記された出席調がある。

大正13年4月、中正校友会発会式時の会員数は159名(当時の卒業生及び在校生の合計数は約200名)。

会費は月額10銭、昭和9年当時もこの金額である。発会から会社が財政面でも面倒をみたことは察しがつく。

日立鉱山乙種夜学校歌
 一 太平洋の波の上 昇る朝日を仰ぐ時
   希望の光洋々と 我等の前途照すなり
 二 神峰山上空高く 冴えし月下のわが友よ
   明煌々の夫れのごと やがて実りの秋は来む
 三 神峰颪の荒ぶとも いなさの風は寒くとも
   昼の勤務も励むべし 夜の学業も勤しまむ
 四 あゝわが友よ諸共に 讃歌(ほぎうた)高くうちあげて
   吾等の生命の棲所(すみか)なる 日立の栄(はえ)をたたへよや

昭和58年6月