本山あれこれ 社宅の生活

加藤 正一

社 宅

大正10年頃の資料によると、社宅は現在の本山グランドを中心に、い号(製錬高)、ろ号(珪石山)、は号(御沢)と約160棟あり、さらにほ号(本部下)、ヘ号(熊の沢)、と号(一本杉)、ち号(掛橋)、り号、る号(大角矢)、ぬ号(不動滝)、を号(石灰山)と全体で600棟ぐらいあった。この中には当然飯場、合宿もあり、役宅と称された職員住宅も含まれている。戸数、人口については調べていないので分からない。

間取りは多様であった。棟割り長屋と呼ばれた一棟通しの部屋もあった。普通一般の社宅は、若干の土間と板の間があって、押入れのついた6畳一間と、土間と、板の間台所に押入れのついた3畳と8畳の二間が多かった。前者が一棟6戸または8戸建、後者が一棟4戸建の、屋根は杉皮葺き、だれが名付けたのか、これがハーモニカ長屋である。屋根は後にルーフィング、スレートと昭和に入ってから葺替えられた。社宅域は御沢の一部を残しグランド周辺はほとんど撤去された。その後は、入四間地区に増設されていった。

鉄筋コンクリートのアパートが建つのは、昭和30年代である。社宅がイロハ文字から地区名で呼ばれるようになったのは、昭和初期からではなかろうか。地域によっては番外表示の社宅も建てられた。また伝令長屋、飛行機長屋などと勝手に呼び名を付けられた長屋もあった。家賃、電灯料、水道料は一般社宅ではすべて無料であった。有料となるのは戦後のことである。

第二次大戦前の社宅の生活の一部について思い出すままに記してみる。

本山の朝

社宅周辺の空地には、名古屋コーチン、白色レグホン、時には南京チャボ、軍鶏などを飼う鶏舎があった。夜明け、時を告げる声が、所々方々からあがった。

また、軒下、裏の出窓などに箱を置き、兎を飼う家庭もあった。本部通りでは見られなかったが、石灰山、大角矢の宮田川支流では家鴨を飼う人もいた。

その他、犬、猫、小鳥のペットを飼う家も珍しくはなかった。盆栽、菊あるいは朝顔づくりに丹精する人もかなりの数であった。掛橋浴場脇、劇場で紅白の幕を張りめぐらし、盆栽展、菊花展をしていたのをかすかに覚えている。

社宅の朝は早かった。ラジオ、蓄音機も全家庭に普及していなかった時代のこと。共同水道、水場と呼ぶ流し端で米を研ぎ、鉄釜に薪で飯を炊いていた。長屋の前で一斗缶をかまど代わりにして、石炭、薪で炊く家もあった。七輪で焼くサンマやイワシの煙が、台所の開けた障子窓から立ち上がっていく光景が今もまぶたの裏にある。御飯の炊き上がりが遅かったり、不出来だったりしたときは、丼や鍋などを持って隣から借りて、出勤する人の朝食や弁当をつくることはそれこそ日常茶飯事のことだった。ときにはわざわざ隣から出向いてきて「子供の分は間に合った?」と声を掛けてくれることもあった。一棟の長屋はさながら一つかまどの雰囲気に包みこまれていた。

会社と生活

水場、便所は各棟の共同で、管理と掃除は輪番制であった。全山が同じ仕組みの中での生活だから、トラブルもあるにはあったが、適当な仲介もあって亀裂を大きくするようなことは少なかった。

共稼ぎの場は、鉱山に限られ、子供も多かったせいか、その数は少数だった。

生活必需物資は、大半が山内で賄えた。米、味噌、醤油、薪炭は鉱山の販売所(なぜかヤケヤと呼んでいた)で、その他は各地区にそれぞれ商店があって、菓子、雑貨類はそこで求められた、青果、魚介類は出店もあり、行商も来た。

本部通りの商店街は、呉服、洋品、和洋菓子、鮮魚、雑貨、時計、文具、豆腐屋、八百屋などで、洋服、家具類は町から購入していた。当時はそれで十分に事足りていた。

下校後、小学生(尋常高等小学校)は、米、薪炭などを販売所から家まで背負わされた。各家庭に背負子が一つはあった。

浴場も共同で、各地区にひとつずつあった。鉱山無賃電車と同様、今も語り草となっている銭湯である。番台があり、販売所から購入した4、5センチぐらいの大きさのやや縦長の白い入浴券を番台に渡して入浴した。浴槽の壁には絵はがきで見た松島に似たペンキで描かれた海浜の風景があった。

郵便物の配達、塵芥、糞尿の汲み取りも会社の手で行われていた。大正10年7月、栃木県の人から会社宛に差し出された封書で、表書きは海岸線(常磐線)日立鉱山御中と書かれ、ちゃんと配達された。茨城県日立鉱山で届いている郵便物はたくさんある。

また各地区に倶楽部があり、囲碁、将棋の愛好者、歌舞音曲の練習会などに無料で開放されていた。伝染病流行の時には、衛生講話もここで開かれた。児童のための紙芝居、人形劇など幼稚園主催で行われた遠い日の記憶が甦る。一般的にみて、各家の生活にそれほどの格差は感じられなかった。

病院のこと

鉱山事務所の入口に鉱山附属病院があった。内科、外科、歯科、眼科の診療をしていた。整形外科、小児科、産婦人科が加わったのは、戦後である。

各科の医師は職員住宅(役宅)で、家族とともに本山に住んでいた。病院には入院室もあり、休日・夜間は医師、看護婦、薬剤師が当直していた。急病人が出たときは、家族か隣近所の人が往診を頼みに病院へ走った。当時電話は本部通りは別として、各地区の巡査駐在所(請願巡査派出所?)と倶楽部、消防番屋だけに、鉱山の施設電話があった。いまのように公社の電話は勿論のこと公衆電話もなかった。

夜間の往診は提灯を灯して医師を迎えに行くときもあった。社宅周辺には街灯もあったが、本部通り以外の社宅を結ぶ道は、山道で街灯の数も少なく、暗かった。

診療が済むと薬を受け取りに医師と看護婦に付いて病院へ向かう。再び家に戻るころは海の方の空が白んでくることもあった。

当時妊婦は自宅で出産するのがほとんどであった。病院の看護婦(助産婦)が妊婦の長屋まで出向いてきて、赤ん坊を取上げてくれた。その後、お七夜の日までだったか、あるいはそれ以上の期間だったか、助産婦は毎日妊婦のところへ通い、赤ん坊をたらいに湯を汲み、身体を洗ってくれていた。長屋のお産は隣近所に住む、老婆を先頭に女手が産湯を沸かしたり、産着、おむつの取り換え、洗濯など、親身の世話をしてくれたそうだ。

炎暑、酷暑の往診、助産、現今の医療体制に比べると夢のような、よその国の話のようだ。マイカーどころか会社にも乗用車がなかったころ、往診鞄を提げ、徒歩で山道を越え、診療や出産に携わっていた人々の姿は、いま振り返ってみると、崇高そのものである。

昭和58年9月