本山あれこれ 一の鳥居

加藤 正一

昭和2年4月、大雄院・本山間に茅根乗合自動車が営業を開始した。運行回数も少なかったせいか、その当時は鉱山電車の大雄院停留所から宮田川沿いの道を徒歩で行き来する人が多かった。

停留場から貨車引き込み線の踏切を渡ると牛小屋。地名の示す通り、昔、鉱山の必要物資を運んだ牛舎の牛を飼っていたところである。

牛車が鉄索に変わった後は、社宅が10棟ほど並んだ。土橋を渡り、少し遡ると川の中の大きな石が目に入る。この石は現在座禅岩と呼ばれている。道は勾配を増してくる。その曲がり角が金山鉱泉の入口であった。昭和40年10月、休山となった諏訪鉱山に抜ける金山隧道口が、今はある。金山橋を渡ると、道路の片側は丈余の切り立った石灰岩である、ここは厳冬、大小さまざまのつららが林立するように垂れ下がり、人目を奪う。自然が描く冬の景観である。

道路の曲折はなおもつづく。現在ある福田屋饅頭店あたりは、杉木立の中で、日中も薄暗かった。そのころここに人家が5軒ほどあった。

そのうちの一軒が川を隔てて祭られたお稲荷さんを守護していた猪狩さんである。その後親族の方は今も同所に住んでおられる。

さらに川に沿って曲所の道を進むと、一の鳥居にたどり着く。大雄院停留所から約2キロ、一気に歩くには、困難な道である。

第二次大戦中あるいは戦後、買い出し部隊は喘ぎながらこの道を何度なく往復した。

製錬所、日製、その他町中へ勤める人、当時の中学生、女学生も朝晩この道を通っていた。

一の鳥居、神峰山頂に鎮座する神峰神社の鳥居が立っているところから、こう呼ばれていた。

今は昭和27年篤志家によって建立された御影石であるが、それ以前は丸木の鳥居であった。

四季涸れることのない清冽な水が渇きを癒してくれる水飲み場が鳥居から少し離れたところにある。

警戒小屋あるいは見張りと呼ばれた5、6坪程度の平屋の建屋がここにあった。会社の警務関係の人が詰めていたところである。ここは鉱山に働いている人を引き抜きに来るので、それに備えたとか、借財その他で逃亡する人を捕らえるためとか、聞いた記憶もあるが、真偽のほどはわからない。行商人、浮浪者なみに不当な検問をされ、不愉快な思いをしたと、後に話す人もいた。警戒小屋の裏手に池があり、緋鯉や真鯉が泳いでいた。池のまわりには、桃、ツツジ、皐月などの植え込みがあり、小庭園風の趣があった。本山に住んだことのある人なら、ここにつながる思い出をそれぞれにもっていることだろう。

海水浴、買出し、遠出の時の喉を潤した水飲み場。茅根バスの停留所。入営、出征の見送りもこの一の鳥居だった。在郷軍人分会長その他の代表から壮行、激励を受け、万歳三唱で本山を後にし、生きて再びこの地を踏むことのできなかった人の数も多かった。第二次大戦の発端となった緒戦の中国大陸で散華した本山最初の遺骨を迎えたのもここだった。

警戒小屋の向い、宮田川を跨いだところにほどよい高さの石灰岩の露出した崖がある。春はツツジ、皐月、秋は紅葉と銀白色の岩肌につりあって景観一際であったと述懐していた。大先輩の話を思い出した。これらのツツジ、皐月は中正校友会の植樹だった。さらにここは水もきれいで蛍も飛び交い、夏の夕涼みに石灰山、不動滝に住む人の中には、ここまで足を伸ばす人もいたとか。

風流、風雅の粋人がそれなりに楽しい一時を過ごしていたところ、今は雑木が密生繁茂してしまい、想像することもできない。座禅岩も周りの杉が伸び放題で、巨岩の偉容は目に映らない。

廃山の夏訪う人もなく金山草繁る

昭和58年夏