久慈川の洪水の話

川崎正次 日立市留町

私の家は以前、久慈川岸の留の舟渡にありました。10戸ほどの部落でしたが、鉄道工事関係の人が集まってきて、大変にぎわったものです。商店、宿屋、料理店、芸妓置屋などもありました。戦後、堤防が嵩あげされたとき、堤防の内側の現在地へ引越し、今では舟渡には2軒残っているだけです。

このあたりでは、洪水のことは「川増し」といい、大洪水は「大川増し」といいますが、私がものごころついてから最大の大川増しは大正9年のものですね。この時には、家がたくさん流されました。その頃は、堤防の外に家がたくさんあったんですね。流されたのは河合(常陸太田市幸久地区)あたりの農家だったそうです。私が見たのは、全部草葺きの屋根の家でしたね。その屋根の上に、にわとりや自い豚がのっていて、流されてくるのを見ました。ここ(留)までは無事流れてくるんですが、ここには鉄橋があって、鉄橋の柱に強い流れがぷつかって大きな渦となり、その渦に呑まれて皆沈んでしまうんです。にわとりも豚も家も全部、ここで水に呑まれてしまいました。

この時、私の家では床上3尺(約90cm)以上、水がのりました。このあたりの水場(常習水害地)の人たちは、床上3尺から4尺以上水がのっても、軒場に水がつかない限り、逃げないで自分の家を守っています。そして、いよいよ持ちこたえられないとなれば、家族中が舟で逃げるんだという考えで、最後まで家を離れずに守っていますね。

水害から家を守るには、まず家の構造上の対策をやっています。たとえば、床板は松板を使わず、杉板ですき間をあけて張るとか、家の腰囲りは土壁にしないで、板張りにするとかです。松板は、一度水に浸ると仲々乾かないし、床板にすき間をあけるのは、水はけをよくするためなんですね。

私の記憶で、最もひどかった洪水は、大正11年のものです。それは新暦の2月17日、旧暦の正月21日でした。前日のえびす講の夜大雨が降って、山(ここでは山とは八溝山をさす)の雪が一度に融けて流れ出したんですね。これを雪白(ゆきじろ)といいます。本当は雪汁(ゆきじる)というんですがね。この雪白の水の色は、普通の洪水の時の水の色とは違って、白っぽくて非常に冷たいんです。この時は渇水期で、鉄橋の架替工事をしていたのですが、異常の出水で工事関係の人たち4人が死亡しました。

決死隊の川口切り

このような大川増しの時は、久慈川口の向渚を切り、川を直線にして流れをよくするならわしですが、この川口を切るということは久慈町の人たちと私たち久慈川沿岸の住民とでは、利害相反するものですから、協定を結んで川口を切ったものです。

協定ができる前の明治23年頃は、留では決死隊をつくって、川口を切りに行ったそうです。久慈浜の方ではこれを切らせまいとする。留側では、抜き身の刀をふりかざして立ち向っている間に、その後方を切るわけですが、久慈川の満水の水圧と海の千潮の時期を見はからってやるわけです。切り方にはコツがあって、その時期を見はからえば、足で砂に水筋をつけただけで切れたといいます。そして、「切ったゾー」の合図で、抜刀隊の人たちは夢中で豊岡側へ逃げるんだそうですが、またたく間に砂がくずれて川幅がひろがり、ぐずぐずして逃げおくれたら、久慈浜側のとりこになるか、水に流されてしまうか、どちらかですからね。このようにして、農地や家や人畜を守ってたのです。

水害対処法

次に水害対策の話をしましょう。大川増しに対しては、男の仕事、女の仕事がそれぞれあります。まず、家の周囲の片付け、飲料水の確保、これは女の仕事です。便所の仕末、便所を汲んで川へ捨てる。または便壷の口をカマスで覆い、石で蓋をする。これは男の仕事です。イロリの灰をとってタライに入れておく、食糧の確保、衣類の確保など、手近かに使うものは出しておくわけです。

次に畳や障子、家財道具、タンス、長持ちなどを、水のとどかぬ所に片付ける。そして一方では、この水がひくのは何時頃になるかを、常に観測しているのです。

水がひきはじめたら、家の中に泥がたまらないように、箒と足で水をかき廻し、床板のすき間から泥が水と一緒に流れてしまうようにする。水が完全にひいたら、便所にたまった水の汲み出し、腰板や柱の清掃などもやります。川増しあがりは、毎日干しものです。

舟渡の生活

こんな苦労をしてまで何故長年舟渡に住みついていたかって? それは引越しするといっても、経済的に仲々困難でした。それに舟渡の人たちは楽天的だったんですね。水がひくと早速ウナギ釣りですよ。これが楽しみでね。水害の苦労を忘れてしまうんです。留でウナギつりをやらない人は奇人扱いでした。

このように苦労を共にしながら、助け合って生きてきたんですね。ですから、舟渡の人たちは団結心が強いですよ。しかし、「銚子の川口てんでんしのぎ」ということわざがあるように、洪水でも最後になると、他人のことは構っておれず、自分の家は自分で守るほかないということだと思いますね。

日立市郷土博物館『市民と博物館』第4号(1979年)