常北電鉄(日立電鉄)開通の想い出

野田義信 日立市大和田町

私が、ここに住み始めたのが24歳の時(大正12年)、一般民家の数は現在とあまり変っていないが、五反百姓で小規模農家が圧倒的でした。その頃は、常磐線も太田線も蒸気機関車が走っていましたが、大橋から小目(常陸太田市)あたりは陸の孤島のようでした。またこの頃は、一般民家には電気もなくランプ生活でしたが、そこを電気で走る車がとおるというのだから異常に近い驚きと関心を示したのは当然でした。そして電車の開通が昭和4年、当時の電車は巾も、長さも短く、車輪も四つで、電線から電気をとるのも「ポール」といって鉄パイプの先に輪がついているものでした。走行中に電線からよくはずれて車掌さんは大変でした。その頃はいつも客車1輌でした。警笛もチンチンと鳴って本当のチンチン電車でした。とにかく開通して1日めは誰でもタダで乗れましたから大変混みましたが、次の日からは電車賃を払わなけれぱ乗れないのでがらがらでしたよ。それでも太田でのサーカスや、久慈浜の六夜尊のお祭りの時など親子年寄り連中で大変混みました。開通した時で大橋駅から常北太田駅までは16分、電車賃は大人6銭、小人は半額、また大橋駅から久慈浜駅までは4分、大人が4銭、小人は半額、当時白米1升(約1.5Kg)が15銭でしたから……。日中のお客さんは一人か二人でしたね。それでも朝は6時頃から夜は11時頃まで1日16往復でしたね。お客さんも勤め人は一応洋服に靴というスタイルですが、それ以外の人は和服に下駄か革履ばきとさまざまでした。それとこの電車が通りはじめてからは目覚し時計代りになりました。朝は○時の電車が通ったから起きるとか、外で仕事をしでいてもお昼とか……。

また、こんなエピソードもありましたよ。私もお酒が好きなのでよく久慈浜へゆき、帰りは終電車にまにあわず、駅員さんに頼んで臨時電車を出してもらい帰ってきたことを覚えています。しかもタダで、その電車が午後11時までに車庫に戻らなけれぱならず、スピードを出しすぎ、久慈浜駅ホーム近くで急ブレーキをかけたため、運転手が胸を打ったとか後で話をききましたが、今では考えられないですね。とにかくこの電車の開通は戦前戦後を通じ、いろいろな面でこの沿線住民に恩恵を与えていますね。現在は大部合理化されたそうですが。

日立市郷土博物館『市民と博物館』第10号(1982年)