1935年 日立鉱山石灰山の惨事

相沢一正

一九七八年–九年に日立市の二つの学校が相次いで廃校になった。本山小学校と大雄院小学校。その、創立されてから廃校にいたるまでの歴史は、日立市の一地域の七〇余年間の激変した歴史を鏡のように映し出している。

これらの学校は、日立鉱山の操業開始から間もなくの、一九〇七年およぴ九年に創立されたもので、その名も日立鉱山尋常小学校、日立鉱山第二尋常小学校として、鉱山従業員子弟の学校であった。本山小の場合、創立時の三学級九一人という児童数は、一九一九年には三〇学級一五九〇人と急激に増加したが、それは日立鉱山の事業拡張にともなって従業員数が増加し続けた結果に他ならない。従業員の増加はまた、当然のことながら従業員住宅地を各所に開設していった。

石灰山はその頃開設された住宅地の一つで一七から八年には供給所や水道施設も完備されて、人間的にぎわいの拠点を形成していた。本山採鉱所に務める従業員とその家族でしめられていたこの住宅地に突如として生じたのが一九三五年の惨事であった。

本山小の児童数はさきの一九年をビークとして減少しその後漸増に移り、一九年水準を凌駕するのは一九三三年に一六七〇人を数えるに至ってからである。第一次大戦後の反動恐慌から昭和恐慌に至るまでの不況という日立鉱山の長い低迷期がこの背後にあったことはいうまでもない。これ以後児童数は増加の一途をだどり、四四年に三六学級二三四九人というピークを形成する。首切り、本番賃金の切下げ、皆動手当や勤続手当の廃止などを現象した不況期を.ぬけ出て、かつ戦時経済への移行にともなって景気は回復し、鉱山は再ぴ活況を取り戻したからである。三二年を基準とすると、四三年には銅生産高は二・一倍、従業員数は二・五倍に増加した。一九三五年という年はこのような活況のまさに助走を開始した年であった。

従業員の増加は、住宅の急造を促していったが、石灰山の、高い山腹への住宅新築もこの年に行われた。傾斜地を平に地ならしするとともにコンクリートの柱を打って基礎を作り、その上に建てた住宅は、通称「飛行機長屋」と呼ばれたのである。その時けずりとって山腹に放置された土砂が惨事の直接の下手人となった。九月、日本本土に停滞する低気圧と沖縄沖南東の洋上に発生して北上してきた台風の影響によって、21日から雨が降り続き、24日にはこの地方で121ミリの集中豪雨となった。この雨のために山腹の土砂がゆるみ、それが大音響とともに真下の棟割長屋めがけて崩落した。25日午前〇時二〇分ごろ、惨事は一瞬の間の出来事であった。六戸建三棟のうち八戸全滅、二戸半潰、生き埋めとなったうち三〇人が遺体となって掘り出され、八人の負傷者がでた。一家全滅の憂き目にあったのは六家族にのぼった。

まさしくこの惨事は、鉱山が活況へ向かう時点を象徴しているものであり、鉱山をめぐる経済的社会的条件こそが惨事の真の下手人であったといえよう。

それから四五年後。一時は二〇〇〇人をこえる人ロを擁した石灰山はいま、鉱山がくる以前の静寂に戻りつつある。無人ではあるが数棟のアパートが残り、それを管理するための老夫婦が住んではいる。まったく廃虚と化したわけではないが、それも時間の問題であろう。日立鉱山は基本的にこの地から去ったのである。石灰山から多くの児童が通った本山小学校はいまはない。

(茨城県歴史館)

歴史散歩 茨城の災害10 『県民と共に』1981年4月号


日立市における気象災害の歴史において、死者28人を出した1947年9月15日のカスリーン台風がよく知られている。それを凌ぐ死者をだしたこの日立鉱山石灰山社宅での災害については、ほとんど知られていないので、ここに紹介する。