日立市の平和通り
県道日立停車場線
日立市は、太平洋戦争で1945年(昭和20)の6月と7月に、アメリカ軍から空襲・艦砲射撃・焼夷弾攻撃の3度の大きな攻撃をうけて戦災にあいました。焼け野原となった日立市街地では、翌年、国の指定を受けて戦災都市復興計画が開始されました。復興事業では、新しい街づくりや工場の再建のほか、文化・教育面にも力がそそがれました。その事業のなかで、新しい日立駅の建設や日立駅と国道6号をむすぶ「県道日立停車場線」の計画がたてられました。
平和通り
「県道日立停車場線」は、延長1050メートル・幅36メートルという大きなものでした。1951年(昭和26)12月に開通し、市ではこの道路の名称を広く市民から募集しました。応募された主な名称には「講和通り」「中央通り」「あけぼの通り」などがあったそうです。
1951年12月5日に発行された『日立市報』には、道路の名称を応募総数1163の内180を占めた最多数の「平和通り」に決定したと記載されています。「日立の繁栄は平和通りから〜日本の平和は日立市民の平和を愛する心から」という思いがこめられている、とされています。
平和通りのサクラ
平和通りにサクラ(桜)が植えられたのは、その年、1951年のことです。最初は、国道6号からけやき通りまでの間で友末茨城県知事と高島日立市長による記念植樹が行われ、その後、地元有志により植樹が続けられました。1970年頃には桜の名所となりました。
1971年(昭和46)に平和通りとけやき通りの交差点にあったロータリーがとりはらわれ、大きな歩道橋が設置されます。
1977年には日立駅とけやき通りの間に植えられていたアオギリ(青桐)は、地元からの要望で桜に植えかえられました。これにより、日立駅から国道6号までの約900メートルの両側に合計115本の桜並木が完成しました。