日立風流物にみる 近代産業と郷土芸能

島崎 和夫

日立風流物は本来は「宮田」風流物です。風流物は江戸時代、宮田村の鎮守神峰権現の例祭の神事のひとつでしたから200年以上ものあいだ「宮田」風流物なのです。日立風流物といわれるようになったのは、1957(昭和32)年ことです。次のような事情がありました。

戦時中に途絶えていた神峰神社の祭りは、昭和20年にアメリカ軍の空襲で風流物の3台の山車だしと人形が焼失し、残った1台の山車も老朽化が激しく、戦後もしばらくのあいだ風流物が演じられることはありませんでした。ところが地元宮田の根本甲子男さんが中心となって人形や山車の復元がはじまり、昭和33年にまず一台が復元されました。昭和の大合併で大日立市が誕生しており、日立風流物の名付け親は、この新しい日立市を代表する祭となって欲しいという願いをこめたのでしょう。


宮田風流物 大正期

ところで、風流物は宮田にだけあったのではありません。日立地方では小木津村や河原子村にもありました。写真を見るといずれも3層の屋形です。

宮田村は明治になって隣の滑川村と合併して日立村となりました。この日立村の宮田は明治末から昭和にかけて、日立鉱山と日立製作所の発展によってむらからまちへ大きく変貌します。

日立鉱山と日立製作所が飛躍する大正期に宮田風流物は大型化し、現在の五層の山車となりました。一方小木津の風流物は1933(昭和8)年を最後に演じられることはなくなり、河原子では戦後の1958(昭和33)年が最後の公演でした。

大正時代から昭和戦前期の宮田風流物は多くの観覧客でにぎわっています。当時の風流物が演じられている写真を見るとあきれるほどの人で埋まっています。戦後に風流物が復興した時期にもたくさんの人が国道をうめています。現代の日立市にこれだけの人を集める催しはありません。この人々は日立鉱山と日立製作所の従業員とその家族に違いありません。農村から日立に職を求めて集ってきた人たちにとって、宮田風流物はふるさとを思い出させるものであったのです。つまり日立鉱山と日立製作所があっての宮田風流物なのです。

逆説的ですが、近代産業の発展によって伝統芸能が存続しえたのです。それゆえ「日立」風流物でなければならなかったといえるのではないでしょうか。そうではなかった伝統的な産業である農業と漁業が中心の村であった小木津と河原子の風流物は、伝統産業の衰退つまり村の衰退とともに消えざるをえなかったのです。しかも、消えたのがいずれも宮田風流物の発展期でした。偶然でしょうか。

「風流物」の読み方

日立風流物を伝えている人たちは「ふうりゅうもの」とよんでいます。これですと重箱読みです。この漢字を音読みするなら一般的には「ふりゅうぶつ」です。しかし「ふうりゅうもの」と言っているのは、「風流なるもの」の「なる」が省略され、さらに「風」を「ふう」と読んだからでしょう。

と2007年7月に書きました。先日2009年9月30日に日立風流物が、ユネスコ世界無形文化遺産となりました。そのおり文化庁が報道機関に流した資料に風流物の読みを「ふりゅうもの」としてありました。上に書いたように地元の人々の読みは「ふうりゅうもの」です。

風の呉音は「ふ」漢音は「ふう」ですから、文化庁は呉音で「ふ」と古いよみをしたわけです。風流を呉音、漢音どちらで読んでもよさそうです。

ですが小学館の『国語大辞典』は「ふりゅう」と読んだときには「祭礼の行列などで、服装や笠に施す華美な装飾」「芸能の一種」と限定しています。文化庁は、この意味で「ふりゅう」と言っているのでしょう。

地元に「風流」と書き表されたもっとも古い記録は、明治の末期のことで、そこには「ふりゅう」とも「ふうりゅう」とも振り仮名がありません。いつから地元で風流物を「ふうりゅうもの」と漢音でルビをふってきたのか、機会があれば調べておきたいと思います。
 *この項は、2016年12月12日に書きあらためました。

「風流物」とは

風流物の読みについて、上記のように書いておきましたが、その解釈について「風流の趣向を凝らした物」と山路興造さんは言っています。つまり風流物という形態があるわけではなく、趣向を凝らしましたよ、といういわば宣伝文句であると言うのです。そして「ふりゅうもの」と呼んでほしいとも。2012年1月29日の「ひたち学への招待 日立風流物再考」という茨城キリスト教大学公開シンポジウムの席上のことです。

たしかに「物」と漢字があてられていますが、この場合、物体・物質のことではなく、抽象化された事柄・概念を意味しています。ですからブツではなくモノと訓読みしている理由がきちんとあるわけです。つまり物という漢字にひきずられてしまっていました。

それでは風流にはどんな意味があるのでしょうか。

『言海』(明治22年初版、昭和6年縮刷638版)では「ふう−りう ミヤビタルコト。スキ。フウガ」としています。この『言海』は明治期の語感を伝えています。とするなら明治期には、風流は「ふうりゅう」と読むことが一般的だったということになります。すくなくとも『言海』の編集者はそう読んでいたのです。

小学館の『国語大辞典』では「ふうりゅう」と読ませて、「1 先人の遺風。伝統。余沢。流風。2 上品で優美な趣きのあること。優雅な趣き。詩歌を作り、その趣きを解し、あるいは趣味の道に遊んで世俗から離れることにもいう。風雅。文雅。3 美しく飾ること。数奇をこらすこと。意匠をこらすこと。華奢。また、そのもの。4ふりゅう(芸能の一種)に同じ。5風流韻事の略。6風流棚の略」などと説明します。

しかし日立風流物の地元「ふうりゅう」と読んで、美しく飾ること、数奇すきをこらすこと、意匠をこらすこと、そして粋いきとか通つうといった意味をもたせたいということでしょうか。

ところで宮田の江戸時代から用いられていた「笠鉾」に風流という言葉が冠せられるのはいつのことか。今に残る古文書を探ると、1900年(明治33)のことです。「風流館之帳」という表題をもつ古文書が残されています。これが宮田における「風流」の初出です。

助川村の「風流物」

じつは江戸時代に風流物という言葉が使われています。それは嘉永元年(1848)に神峰山の祭事にとなりの助川村が「風流物」を出そうとしたときのことです。村役人と風流物をだそうした田手沼集落の人々のあいだに風流物のだしかたでもめごとになりました(内容については『新修日立市史』上巻を参照)。それは田尻村の嘉永元年の「山横目御用留」の記事に拠っています。そこには「神峰山祭事ニ付助川村ニテ風流物指出候儀、下中ニてハ引訳差出候様相成候処、田手沼ニてハ 古例通り有来候事も申候得ハ(以下略)」とあるのです。宮田村ではありません。助川村でのことです。

そして残念ながら読み(ふりがな)はついていません(当然です)。

助川といえば、鹿島神社の祭礼に出される「舞屋台」があります。助川の4町内に舞屋台が1台ずつあって、神峰神社の大祭には4台そろって曳きだされたというのです。日立市の指定文化財になっているのが、そのうちの「旧助川西上町舞屋台」です(『増訂版 日立市の文化財』)。江戸時代において助川村の舞屋台で演じられるものが風流物と呼ばれていたと考えられます。

宮田の「風流物」を考える手だてになりそうです。

参考文献