「二十日会」のこと

高橋 市蔵

私が「二十日会」に顔を出すようになったのは、戦後間もない昭和二一年の半ばだったと記憶しています。当時私は日立工場庶務課の文書係に勤務していました。或る日上長の萬田(五郎)総務部長に呼ばれ、「工場に勤めていると兎角世間知らずになってしまう。君たちはもっと地域の人たちと知り合い、地域に溶け込まなければならない。日立に地域と日鉱、日製の有志が定期的に集まる『二十日会』というのがある。この会に君も出て見てはどうか。」という話がありました。私は他県から日立に来た所謂「他所者」で、住いも社宅で地域には殆ど知り合いがいませんでした。こうした会に入れて貰えれば地域の人々と交流ができるよい機会だと思い、万田さんに入会推薦をお願いしました。

しかし実を言うと「二十日会」というのはどういう性格の会か私は知りませんでした。日立工場からは中村藤吉氏(庶務)、瀬谷佳邦氏(用地)が出ているということでした。前に労務の石井成就氏が入っていたが、笠戸工場に転勤になり退会したので、補充のような形で日立工場から私と吉田茂氏(勤労)が新しくメンバーに加えて頂くことになったのでした。

瀬谷氏に聞くと「二十日会」は戦時中の翼賛壮年団が解散されたので、翼壮の主なメンバーによって有志懇談会として結成された会だということでした。特別政治的な色彩はない。日鉱、日製、地域の三者が集って、一杯飲みながら懇談して親交を深める会だから何も心配することはないとも付け加えられました。(「二十日会」のいわれについては、昭和五九年三月刊行の石井成就著『回顧七十年』に次のように書かれています。

「終戦の直後、翼壮メンバーは解散の為の会合を持った。その中で、誰云うとなく、折角職域と地域に跨がる心の交流の火を消すことは余りにも残念だから、別の名称で交流を存続しようということになり、七月十九日の夜の焼夷弾攻撃で殆ど全市域が灰塵に帰したのだから、日立市の再建は二十日から始まったという考え方に因み、『二十日会』と命名することになった。」)

「二十日会」は月の二十日に会合を開くということでしたが、二十日は必ずしも厳格ではなく別の日のこともありましたし、月一回というのも何か月に一回ということもありました。会はその時の当番者の自宅や、会社の倶楽部などで行いました。私が初めて出席した頃の「二十日会」のメンバーは次の方々でした。

地域=大和田重実(滑川清水)、大貫勝男(宮田、県立日立一高)、小野崎久弥(滑川)、宮本清蔵(滑川小畑)、北見粂蔵(助川土佐)、滑川弘蔵(宮田、歯科医)、志賀猛雄(宮田小校長)、稲葉弥市(高松台、天理教会)

日鉱=福田重清、金塚俊一、鈴木桂之助、福田五郎(その他一、二名おられたが失名)

日製=萬田五郎、中村藤吉、瀬谷佳邦、吉田茂、高橋市藏

福田重清さん、萬田五郎さんは偶にしか出席されませんでした。また滑川弘蔵さんは早く日立を去られて退会されたように記憶しています。

「二十日会」は暫くの間は割合い頻繁に開催されましたが、次第に頻度が遠退いて行きました。戦後の変化が激しく^世の中が忙しくなった勢でしたでしょうか。そのうちメンバーも一人減り、二人減りして、いつか自然消滅のような形で会合はなくなってしまいました。

「二十日会」でどんなことが話題になったか今定かでありません。私は専ら聞き役でしたが、市の情勢の明るい地域の人々の市政に対する抱負や、論客だった鉱山の金塚さんの熱弁などが僅かに思い出されます。昭和二十二年の市会議員選挙で、『二十日会」のメンバーの中から、大和田、大貫、志賀、中村等の諸氏が議員に当選されて、市政に関する話も多くなったように記憶しています。時には侃々諤々の議論もありましたが、何の蟠りもなく酒盃をあげては愉快に語り合いました。地域、職場とのよき交流の場であったと今に思い出されます。

『日立の現代史の会通信』 第20号 1990.7.7