日立美協展創設のころ
工都日立として県内はもとより、全国的にも有数の工業都市といわれてきたこのまちも、三十数年前、あの忌わしい戦災で、見るかげもない姿に変わり果ててしまった。
しかし、時の流れは早く、その悲惨さも忘れさられつつある現在、その当時ただただ生きることのみ汲々と、なんの潤いもなく索漠としたまちに、文化の花を咲かせ、なんとか市民の心を和ませようと、十数名の画描き仲間が立ち上がり、無謀ともいえそうな計画にとりくみ、まがりなりにも日立美術協会という絵画グループを創立したのは、昭和22年6月だった。
いまはなき斎藤勇太郎氏を先頭に、寝食を忘れ、ただひたすら市民のため、まちのための文化活動をと馳け回り、市の協力もえて、第1回展を開催するまでにこぎつけたのである。
昨今いたるところで、美術関係の個展やグループ展、また各種芸能関係の発表会なども盛んで、働くまちから文化のまちとして知られるまでになったのも、このまちの一角に蒔いたひと握りの種が、いまこのような大樹となり、花を咲かせるようになったからだと思うにつけ、感無量である。
さて、その第1回展の模様であるが、なにぶんにも物資も乏しく、展覧会場として市の市会会議室を借り受けるまでの苦労は、なみたいていのものでなかった。絵具なども長山商会(現在の長山画廊)ただ一軒という、いまでは考えられない状況のなかで、展覧会で自分たちの画が一般の人たちに見てもらえるという期待に胸をふくらませ、戦災の苦しみもすっかり忘れ、なんとか一枚のタブローを制作したものの、いったい見てくれるだろうかと不安のうちに、ふたをあけてみて驚いた。
初日から狭い会場は人でうずまり、その肩越しに画を見る盛況に、われわれ創立者一同快哉を叫ばずにはいられなかった。
こうして、やがて日立美術協会も年ごとに会員がふえ、いまでは100名をこす大世帯となり、昨年は第29回展を開催、また日立市展も毎年開かれるまでになった。願わくは、このわれわれ創立者の労苦を「日立文化」の一ページに永久にとどめていただければ幸甚に思う次第である。
写真:第1回日立美術協会展と創立者たち 【写真略】
日立市郷土博物館『市民と博物館』第9号(1981年)