入四間の牧野と馬産

大高吉之介 日立市入四間町

馬産は入四間のうちでも、とくに笹目地区が多かったですね。これは地形の関係から、放牧するのに都合がよかったからでしょう。現在の牧野は大正14年に申請し、昭和2年に許可になりました。それまでは牧野はなく私有林の山に放牧していました。といっても、それは手元におく馬のことで、それ以外の馬はほとんど貸付けたものです。私のところでも、宮田、滑川、田尻、小木津などの農家に20数頭貸付けておきました。ここは旧久慈郡で、産馬組合は小里の組合に所属し、馬市も小里の組合の馬市へ行ったものです。馬をつれて午前1時ごろ出発して、小里へ6時か7時には着きました。入四間からは多いとき60頭ぐらいでましたね。私のところでは、7頭だしたこともありますが、これは大正時代の話で、馬産の全盛期でしたね。

牧野使用の許可がおりたときは、もうみな大喜びでした。というのは、馬を3、4頭も家に飼っておくと、なかなか世話が大変なんですよ。これからは自由に放牧できるというので、何千メートルにもおよぶ馬留めの土塁を、一気呵成に築いてしまいました。土塁は延長5千メートル、高さ1.5メートル、馬1頭あたり土塁何メートルと組合員に割当てたものです。

従来の馬は馬格が悪かったので、改良が行なわれました。当初、種馬所は小里にしかなかったのですが、その後入四間下の竹ノ内にできて、栃木県から種馬が3頭出張してきました。種付けは春先、期間は3か月でした。それぞれの種馬にあう馬をきめるため、牝馬検査が行なわれました。この検査によって、この牝馬は骨が細いから骨格の太いこの種馬と掛け合わせるなどときめるわけです。これで馬格がずっとよくなったと思いますね。馬が減少した最大の原因は病気ですね。伝染性貧血症で、これにかかると助かりません。また、戦争がたけなわになった昭和17年ごろから、馬格のよい馬はみな、軍へ徴発されてしまいました。さらに原因不明の病気などで、人四間の馬は急激に減ってしまいました。

日立市郷土博物館『市民と博物館』第6号(1979年)