史料 鮎川浜のプール設置寄付趣意書

島崎巖さんの調査から

かつて鮎川河口にプールがありました。このプールの開設の経緯を記す史料があります。それを紹介しましょう。

なお、原文の縦書を横書に、片仮名を平仮名になおしています(片仮名にするのに少々手間がかかるからですが)。読点(、)は原文にありませんが、編者の解釈で入れておきました。

[表紙]
 昭和七年七月
  プール設置寄附芳名録
   鮎川海水浴旅館組合

[本文]
 プール設置寄附趣意書

鮎川濱は別名相川浜と称し、潮湯治場として古き歴史を有し、焼石湯の効験著しきを以て其名夙に世人に識らる、近時々勢の進歩と倶に面目一新し、其施設待遇等敢て県下に三濱地方に劣らざる海水浴場と化し、年々歳々浴客の数を増やしつゝあるの盛況にあるも、如何せん海水浴場以外に娯楽及運動場の設備なきを遺憾とし、這徊同業者間に於て鮎見橋を中心とする天然の地形を利用し、鮎川々口に幅一五、一四米高さ一、七米の流水堰止工事を施し、延長七〇米の淡水を湛へる一大遊泳場(プール)を設置し、浴客の利便と一般公衆の水泳競技場として公開提供し、夏の楽園となさんとするの計劃成り、既に工事に着手したるも、相当多額の経費を要し現下財界不況の折柄我等少数同業者間に於て工費全額捻出は頗る難事に属するを以て諸賢の御同情を仰き、此の挙をして全からしめんとす、目下財政窮迫の際御高慮を煩はすは甚た不本意なるも、事情御賢察何分の御同情を賜はられんことを懇願に堪へす候、恐惶敬白

昭和七年七月
  鮎川海水浴旅館組合
   <以下寄付者名及び金額を略>

寄付者名と金額を省略しましたが、瀬谷・小野・益子・助川・島崎・黒澤・海野といった成沢・諏訪・油繩子に多くみられる姓が大半です。個人のほかに企業・団体の名が数多くみられます。それらを次にあげておきます。

諏訪鉱山事務所・(株)日立製作所日立工場・茨城県立日立中学校・小野崎自動車部・河原子自動車商会・常陸セメント(株)・島崎酒造店・鮎川小学校職員一同・島根金物店・赤津商店・滝平屋・扇屋・大坂屋・東海高等女学校・石川商店・水濱電車日立営業所・国分小学校職員・平和堂・井熊製菓会社・小川屋・北見組自動車部・大久保屋(河原子町)・日立水泳部・島崎館

寄附金額の合計は286円です。日立鉱山や日立製作所の寄付は珍しくありませんが、鮎川海水浴場に連絡していると思われるバスの営業者が3社も名を連ねていたり、小学校や中学校・女学校の名前があるのは、それぞれのプールへの期待でしょうか。寄付をする、寄付を求める、いろんな思惑があってのことでしょう。

この資料を提供くださった東成沢町の島崎巖さん(故人)の調査によれば、プールの設置者は、鮎川村村長瀬谷幸太郎、旅館組合長は小野栄、工事費は251円44銭、開場費が102円49銭、工期は昭和6年(1931)10月18日から翌7年7月5日、プール開きの日は昭和7年7月20日ごろ、花火を10発打ち上げたそうです。昭和8年に118円29銭をかけ、追加の工事がなされました。そして閉鎖は昭和33年(1958)、鮎川の水の汚れが原因でした。

島崎巖さんの鮎川のプールについての話は「鮎川河口のプール」と題して『市民と博物館』第8号に掲載されています。 こちら


趣意書からは未曾有の昭和恐慌のもとで有名とはいえない地方の小さな旅館街の人々の、不況をのりこえようとする必死さが伝わってきます。そして、閉鎖に追い込まれたのは、高度成長期の入り口にあって、都市基盤整備の立遅れと工業優先の政策がひきおこした鮎川の汚染がありました。小さな、30年の歴史もないプールであっても、その始まりと終わりは見事に時代を映し出しています。