助川海防城跡出土の軒桟瓦 
「瓦礫」から得られる情報

石川 功


助川海防城跡出土軒桟瓦

(1)・(2)郷土博物館所蔵資料、(3)〜(5)2004年9月筆者表採資料。(1)〜(3)は同じ瓦氾から作られたものと思われますが、よく見ると(4)と(5)は同じ文様でも詳細は微妙に異なるので、瓦氾が異なっていることが確認できます。

皆さんの家などでもよく使われている屋根瓦は、古くは紀元前の中国に生まれ、飛鳥時代頃に日本に伝えられたものです。屋根を瓦で葺く場合には多量の瓦が使われることから、寺院や城郭の発掘調査をすると、建物に使われていた瓦が文字通り「瓦礫」の山として多量に出土することがあります。今回は助川海防城跡から見つかった瓦について分かったことを紹介します。

市中心部にある助川海防城跡は、水戸藩が江戸時代終わり頃の天保7(1836)年に海防のために築いた城館で、元治元(1864)年に水戸藩の内部の争いによって焼失したと伝えられています。城の構造や施設等の詳細は不明ですが、古絵図には城内に建物が描かれています。なお現在は本丸などが茨城県・日立市指定史跡になっています。

城跡に行くと現在でもたくさんの瓦片が見られます。郷土博に展示されている助川海防城跡採集の瓦を見ると、軒丸瓦・軒桟瓦・壁瓦?・(伝)瓦製水道管などが確認できます。このうち今回紹介する軒桟瓦は、丸瓦と平瓦を一体化した桟瓦に軒飾り(瓦当)が付いた瓦のことです。桟瓦葺きは現在の建物でも用いられていますが、本瓦葺きに比べて瓦が重なる部分が小さいため屋根が軽く仕上がることから、江戸では18世紀前期の享保年間以降に普及した手法です。助川海防城跡に軒桟瓦が見られることから、城内に桟瓦が使われていた建物が存在していたこと、城が造られた時期には日立市周辺にも桟瓦葺きの技術が伝わっていたことが分かります。

次にこの平瓦部の文様を観察してみましょう。大別すると(1)〜(3)の瓦と(4)・(5)の瓦の文様の2種類があることが分かります。まず(1)〜(3)の瓦ですが、宝珠形の中心飾りや全体構成は江戸で使われていた瓦に似ていますので、大きくは江戸及び江戸周辺地域で作られて使われていた瓦と同じグループ(江戸式)の瓦ということができます。ただし中心飾りの両側にある二重線で描かれた唐草文は江戸では17〜18世紀前半頃の瓦に多く見られる文様なので、助川海防城の瓦の文様は江戸の同時代の模様ではなく、少し古い時代の瓦に似ているといえます。次に(4)と(5)の瓦ですが、中心飾りは橘形で左右に特徴的なY字状の脇があるので、江戸時代に大坂及びその周辺で使われていた(大坂式)瓦に似ているということができますが、これも大坂の瓦に比べると細部が異なっているので、大坂の影響を受けて作られた瓦と思われます。

城の建物を瓦葺きにする場合には非常に大量の瓦が必要となることから、[1]近隣に瓦の生産場所がある、[2]水運などにより離れた生産地から大量の瓦を運んでくることができる、などの生産と流通の確保が必要となります。助川海防城の場合、江戸式・大坂式の瓦が見られるものの詳細は異なる点から見れば、瓦はそれぞれの生産地から運ばれたものではなく、城に比較的近い地域に生産場所があり、そこから供給されたものではないかと考えられます。ただし江戸式・大坂式に似た瓦当文様が存在していることから見ると、生産にあたってこれらの生産地から何らかの影響があった可能性が考えられます。特に遠隔地である大坂からの影響を受けている瓦が見られる点など、今後水戸藩や日立市周辺の近世瓦の生産・流通について研究が進めば、新たな事実が分かるかも知れません。

(いしかわ いさお 土浦市上高津貝塚ふるさと歴史の広場学芸員)『市民と博物館』より