小田 治

泉川の洗い場  佐藤しのさん聞き語り

洗い場

私が水木の佐藤家に嫁いできたのは昭和2年でした。当時婚家は農業を営んでおり、農業は昭和32年ころまで続けました。私が嫁にきたときは仕事一辺倒でした。少しでも財産を増やそうと思って一所懸命働きました。今は毎日おじいさんと仏前でお話をしています。

昭和2年ころは、地元の人たちは泉川の水をさかんに使いました。各家庭に大きな水がめがあって、川の水をくんでおき、生活用水としました。もちろん飲料水にもしました。洗い物は川筋の洗い場で行い、上手の方から米とぎ、野菜洗い、食器洗いといった具合に一定の序列あって、洗濯は下手のほうでするのが決まりでした。洗い場川筋に4、5箇所ありました。生活用水として泉川を利用したのは水道が引かれた昭和47、48年ころまでです。

時期は記憶していませんが、以前は川の中で水が自噴するところがありました。10年くらい前までは子どもが川で水遊びをしていました。その頃は金魚藻が自生していて金魚鉢に入れたものです。今も大きな水草が生えていますが、金魚藻ではありません。

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佐藤さん(81歳)が使ったという洗い場は今も残っている。その構造は、石段を3、4段おりると見事な石畳に築かれた床があり、対岸もしっかりした石積みになっている。洗い場はほかにも数箇所あったとの由だが、今回その痕跡を認めることはできなかった。近辺の人びとに尋ねても、まったくわからないという。

『市民と博物館』第27号 1990.1.20

水木の駒つなぎ石

水木の駒つなぎ石

水木町宿入口の空地に45×40cmくらいの石がゴロリと置き忘れられている。石には紐か綱を通すためと思われる穴が二ケ所あけてあるから、何かをつなぎ留める目的のように見える。

ふとこれは駒(馬)をつなぐためではないかと思った。
全国に駒つなぎの松とか杉の例は多い。

石があっても不思議ではない。

しかし近所の人に聞いても知らぬという。中にはへえーそんな石があるんですかとまったくの無関心で頼りない話であるが、反論がないかぎり駒つなぎ石とみてよいと思う。

全国でも貴重な石と思われるので、ぜひ地元で保存の方法を講じていただきたいと希望する。

『市民と博物館』第28号 1990.4.12

日立にもあった十三塚

日立にもあった十三塚

十三塚の伝承は各地に散在する。柳田国男によれば、地名に残るのみのものを含めて全国で120例あまりといわれる。柳田は「この塚の由来分布を詳にせんことは余が痛切なる希望なり」とも述べている。

このように柳田の熱視を浴びた十三塚が南高野にあって、今も伝承されている。十三塚とは村境や丘の上に13個の土壇を築いたもので、塚中に遺物はない。南高野の十三塚には13の土壇はないが、かわりに御幣が並べられている。

これは赤津氏一族の氏神であり、旧暦11月15日が祭日で、13体の御神体を各家から持ち寄って神官により塚の前で祭祀される。御神体は複数を祀る家があるから13軒で祀るということではない。

柳田を慨嘆せしめたごとく、今この塚の由来をさぐる手がかりは薄く、ただ訪れる人を伝説の彼方に誘うばかりである。

なお塚の背後に桜に似た神木があるが、昔から花が咲いたことがないと言い、「名なしの木」とよばれている。

『市民と博物館』第29号 1990.8.15

後生車

後生車

後生車の解説は、柳田国男の文章に待とう。

「我が国には、自分の悲しみを道行く人に訴えて、供養の協力を求める習わしが古くからあって、後生車とか色々形をとって普く分布している」と。

この後生車が、日立市内に今も健在であるが、近隣の人にたずねても、建立の時期とか、何のためのものとかは、忘れ去られているように思われた。

後生車は、自分の役割はもう終わったと言わんばかりに、私の手にまかせてカラカラと回るばかりであった。

『市民と博物館』第30号 1992.2.14