思い出と偶感 博物館開館5周年に寄す

萬田 五郎

中公新書の司馬遼太郎、ドナルド・キーン著『日本人と日本文化』に、「私は偶然、日本人にうまれた。ただ市役所に私の戸籍謄本があるというだけのことで私は日本国に属し、それだけの理由で日本のことを知っているかのような錯覚をもっている。多くの日本人も私に似たような錯覚をもっているにちがいなく、ときどきそれが錯覚にすぎないということに気付いて愕然とするという点でも、他の多くの日本人とおなじである。」と司馬遼太郎がいっているのを読んで、日立市と日立市民についてもおなじことがいえそうだと考えた。先祖何代かの土地っ子の市民でも、日立についてどれだけのことを知っているだろうか。ましていわゆるよそものの市民、しかもそれが、いまでは市民の大半であるひとたちが、毎日住んでいるこのまちについて知っていることは、率直にいうと、ほとんど知っていないといっていいすぎではないであろう。こんないいかたをすると、知らないからどうしたというんだと開き直られては困るが、少なくも選民意識といっては大げさだが、それに似たものをもっており、またよそもの市民とはちがう土地に対する感情をもっている土地っ子市民は、まちに対するある程度のちゃんとした知識をもつべきだと考えるのは理由のないことだろうか。よそもの市民といっても、たとえば私だが、ここで始めて就職し、世帯をもち、子どもを生み育て、75年中50年を過ごし、墓場も用意し、もうほかに行くところはない。私などより古い二世、三世が市民の大半である日立であるのだから、そのひとたちにも市に対するある程度の知識をもってもらわないことには、市民がまちづくりの主人公だなどいっても問題になるまい。

郷土博物館を造るとき、上のようなことを考えたわけではない。そもそもは、私が軍司教育長に書いたメモにあるらしいが、なにを書いたか記憶がない。あるいは根本甲子男さんから、昔の日立町役場の跡地の利用について話があった、また根本さんが「風流物」の「かしら」を探し求めた際に、抱き合わせに引きとらされたものの処理に困っておられる話があったことなどから、教育長にメモを書いたような気がする。ともかく、話がばたばた進んで、文部省への申請となったが、それほど希望が多いものとは思わなかったのに、先願が山積していて、その年はおろか翌年でも難かしいという意外なものであった。それからの舞台裏の話をこんなところへ書くべきでないと思うが、これも博物館誕生の史実のひとつで、ここに書いておかないと永久に消えてしまうだろうから、敢て誌すことをお許しねがいたい。要は申請順位の繰り上げの非常手段である。塚原俊郎代議士、日製本間副社長(これにはわけあり)を動員し、文部大臣へ直訴ということで、その間大窪助役の大活躍があって、私の市長最後の仕事を飾らせてもらったのであった。

郷土博物館はこうして誕生した。そして、満5年を迎えるということだが、そもそも上のとおり恥ずかしい話だが明確な目的意識もなく、その後みなさんから教えられるところ多く、冒頭に書いたような考えとも関連して、これはまちづくりに不可欠の施設であることに気付いた。

日立は、海あり山あり、気候温暖で自然条件に恵まれたまちだが、都市化の歴史は、日立鉱山の開発、日立製作所の発展にともなうもので、そこにプラス、マイナスの両面がある。私たちはこの歴史に学び、欠点を改め、不足を補ってまちづくりを進めなければならない。その際、郷土博物館は単なる建家ではなく、われわれのまちづくりを先導する灯台の役割を果たす存在になるであろう。

『市民と博物館』第7号(1980年4月1日)より