史料 金沢金山
1 元禄5年(1692) | 永田勘衛門「御領内御金山一巻」 |
2 安永年間(1772–81) | 久方蘭渓「御用留摘要 三」 |
3 文化4年(1807) | 小宮山楓軒編「水府志料」 |
4 文政10年(1827) | 石川慎斎編「水戸紀年」 |
5 文政年間(1818–30) | 『大三箇倭文神宮社記』 |
6 天保14年(1843) | 金沢金山再発願書 |
7 安政2年(1855) | 青山延寿『常北遊記』 |
水戸藩領常陸国多賀郡金沢村(茨城県日立市金沢町)にあった金沢金山に関する近世の記事を紹介します。上記の6点の史料のなかから金沢金山の記述を抜きだしました。
3の「水府史料」に金沢村の地名の由来が金山に由来するとかかれています。あたりまえすぎておもしろくありませんが、念のために言い添えておきます。
2の「御用留摘要」からは、金沢金山がいかに断続的な経営であったかがよくわかります。
6は、天保年間の「金澤金山諸用留」からぬきだしたものです。金沢の金山の始まりは、言い伝えだとしながらも「文治年号之頃」だとしています。文治元年は西暦で1185年のことです。金沢金山のはじまりの時期を言っているのは、この史料だけのようです。なお諸用留の全文が、橘松壽「金沢金山考」(『郷土ひたち』第54号)で紹介されています。
7の青山延寿の観察記録はわかりやすく読めます。さすがです。
*史料本文中の( )と[ ]は引用者の補足です。
1 元禄5年 永田勘衛門「御領内御金山一巻」
茨城県史編さん近世史第1部会『近世史料4 加藤寛斎随筆』
- 一 金沢丑のふミかき、びわのくき金山之義ハ、金出申時分ハ佐戸かます壱荷に能所ハ五十両、百両も御坐候得共、又金気切申時分ハ二年も三年も掘当不申、付掘ハ跡方より望無御坐候故に、今不仕候、
2 安永年間 久方蘭渓「御用留摘要 三」
野上平さん筆写稿
[註]本史料では、金沢金山だけでなく、その附近の鉱山についての記述も収録した。
久方蘭渓 「松岡郡鑑」(宝暦13年 1763)の著者。松岡郡の郡宰
- 一 同(延享)五辰(1748)十月、下手綱村与次衛門、助川村金山掘候義願出候所、暫時ニ止
- 一 同年(宝暦2–1752)正月、金沢村金山掘度候由願出、追々掘候節之見合御好ニ而書出候
- 一 宝暦三年酉、金沢村金山御役金指上鑿度候段、江戸町人山城屋平助等願出相済、小屋掛場・諸道具・浮役・手代等御達之上召抱候留有、同七丑三月、金山請負名前鹿島屋六兵衛と仕度願済、右段々掘候所、金子届兼候由ニ而拝借金等も少々相済み候所[一向に]金も不出損失、同八寅年止
- 一 同(宝暦)六子五月、町屋村瀬谷村より金山試掘之願出候所、役所ニ而指留、若老衆江御意取ニ申出候
- 一 同(宝暦)八寅三月、町屋村富士山沢と申所、金山掘跡有之山色宜候由、江戸金主より御益金指上度願出候所、不相済候
貞享(1644-88)頃歟、右町屋辺所々金山為御掘御試被遊候へ共、御益小分之義ニ而右留ハ御勘定所ニ有之由- 一 同年十一月、助川村梅ヶ沢ニ而金山試掘願い出候所不模通止
- 一 宝暦九卯(1759)十二月、金沢村金山掘度候由、府中之櫻井庄兵衛と申者御益差上掘申度、達御願出御廻被成候所、不可然候段申出相止、山封印被仰付候
- 一 宝暦十一午、大吟味中より江戸御老中より被仰遣候由、金沢村金山府中之櫻井庄兵衛願出、御益金も差上候趣に候所、忠右衛門者如何存候承候様ニとの事故、右之義支配之ものへも為申聞、村方相糺可及御挨拶に事に御座候処、先達而山城屋平助不束共的当ニ御座候模通可申事とハ不存候、殊ニ一旦少□□御座候而も平助方江相済候内之次第承候ニ、金掘等之無宿者共入込放埒之事仕、剰村々若キ者等相勧メ風儀江も相障、永々御不益も出来、尚又右之残党残居、今以悪事仕候者絶兼候、土中之金子ハいか程有之も難計御座候へ共、何レニも不可然奉存候、乍去為掘候様御下知有之候ハヽ畏候、如何と御尋之義故存分申延候段申候へハ追而尤ニ思召候条、右庄兵衛も願御返早々御国引立帰候様御達候条、此上弥山封印仕候ニとの御事候由大吟味中申聞候事
- 一 同(明和2–1765)年五月、金沢村金山向掘願出済
- 一 同(明和6)年六月、金沢村金山江戸野村忠次郎と申す者金主ニ哉掘初立度願済候
- 一 同(安永5–1776)年、太田村庄左衛門、瀬谷村ニ而金山試掘願出候所止
3 文化4年 小宮山楓軒「水府志料」
『茨城県史料 近世地誌編』
石神組 金沢村 戸凡百五十二 水戸迄六里 飯盛山、立割山、妙見山と云所より金を産す。佐竹氏の時、飯盛尤も多く出せしと云。 自後寛永より元禄の頃迄ほりとりしとなり。村の名よりて名付く。
4 文政10年 石川慎斎編「水戸紀年」
『茨城県史料 近世政治編I』p.446
寛永九壬申(1632) 今年金澤山を穿テ金ヲトラシム、後町屋・大子・瀧山・塩沢・助川等ヨリモ金ヲ出ス、 高野ヨリ錫ヲ出ス、年々其益少ナカラス
5 文政年間 『大三箇倭文神宮社記』
大貫幸男編 ふるさと文庫
- 一 先年金沢金山出金致候年号之儀者、寛文元年(1661)丑ノ年より元禄三年(1690)ノ極月迄ニ三十年之出金ニ御座候、右之出金玉金ニ而五十三貫五百八匁、但し此金九千五百十九両壱分鐚五百文也、十両ニ付五十六匁かへ、但し山本也、惣金高壱万弐千百十両鐚三百文也、但し十両ニ四十四匁かへ、残金弐千五百九十六両鐚八百文也、右者上之御徳用ニ罷成候、此節之山役人小泉権兵衛と申者御座候、案寛文元年丑年より寶暦四戌年(1754)迄ニ九十四年になる。
元禄三年より寶暦四年迄此間六十六年休山也、時に寶暦四年よリ右之金山ニ取かゝり、同六年子正月迄三年ヶ間出金有之候金三百両程出申候由、尤出金者三千両程も御座候得共、皆以金主不按内ニ御座候故、金掘共次□取逃申候由沙汰致し候、金主江戸表ニ而梶間や(鹿島屋)六兵衛、山城屋平助右両人ニ御座候、山役所小島忠次右衛門
[読み下し]
ひとつ、先年金沢金山出金いたしそろ年号の儀は、寛文元年丑の年より元禄三年の十二月までに三十年の出金にござそろ。右の出金玉金にて五十三貫五百八匁、ただしこの金九千五百十九両一分鐚五百文なり、十両につき五十六匁換ふ。ただし山本なり。惣金高一万二千百十両鐚三百文なり。ただし十両に四十四匁換ふ。残金二千五百九十六両鐚八百文なり。右は上の御徳用にまかりなりそろ。この節の山役人小泉権兵衛と申す者にござそろ。案ずるに寛文元年丑年より宝暦四戌年(1754)までに九十四年になる。
元禄三年より宝暦四年までこの間六十六年休山なり。時に宝暦四年より右の金山にとりかかり、同六年子正月まで三年があひだ出金これありそろ。金三百両ほどいで申し候よし。もっとも出金は三千両ほどもござさふらえども、皆もって金主不案内にござそろゆえ、金掘りども次□取り逃げ申しそろよし沙汰致しそろ。金主は江戸表にて梶間や六兵衛、山城屋平助右両人にござそろ。山役所小島忠次右衛門
6 天保14年 金沢金山再発願書
橘松壽「金沢金山考」(『郷土ひたち』第54号)
乍恐以書附奉願上候事 金澤村 願 人 藤五郎 大久保村 世話人 成田七兵衛
- 一 当村御金山之儀、申伝ニ者御座候得共、先年文治年号之頃より相開、折々相休ニ其後明和年中之頃迄度々再發仕候由承知仕居候処、当四拾弐三ケ年已前江戸表より小袖源蔵と申者相下り御金山開発仕候得共、其砌者飯盛山水溜り水抜行届キ兼、中途ニ相休罷帰り候趣之処、此節者遥七八町下出水と申処ヨリ水掘抜仕、飯盛山底之水當村へ掘流シ、御金山盛山ニ相成候様仕度奉存候ニ付、江川太郎左右衛門支配豆州加茂郡毛倉野村金山師安井定吉と申者之手代金掘り吉松相下り、村方御封山之敷口より金山底迄内見分仕候得共、件之水溜り抜き候得共、山花茂相見へ候由之処慥ニ承り、此度之金掘り吉松江戸表迄罷登り、安井定吉ニ直談仕、規定書一札請取罷帰リ候間、乍恐私共右之者共世話仕罷在候ニ付、村御役人衆中江御願申上置候、何卒御上之御苦難奉恐入候得共、御山盛山仕候ハヽ 御国益ニも相成、猶又村内一同潤ニも相成可申と乍恐奉存候間、奉願上候儀ニ非常之御願ニ者御座候得共、御仁恵之御了簡ヲ以、御済口成被下置候様奉願上候、早速御済口被仰付候ハヽ私共者不及申上ニ金山師并村内一統難有仕合ニ奉存候間、偏ニ御済口之程奉願上候、依而如件
天保十四年卯九月
[本文読み下し]
ひとつ、当村御金山の儀、申し伝へにはござさふらえども、先年文治年号の頃よりあひ開き、折々あひ休みにその後明和年中の頃までたびたび再発仕りそろ由承知仕りおりそろところ、当四十二三ケ年以前江戸表より小袖源蔵と申す者あひ下りご金山開発仕りさふらえども、そのみぎりは飯盛山の水溜り、水抜き行き届きかね、中途にあひ休みまかり帰りそろ趣の処、この節は遥か七八町下の出水と申すところより水掘り抜き仕り、飯盛山底の水を当村へ掘り流し、ご金山盛山にあひなりそろやう仕りたく存じ奉りそろに付、江川太郎左右衛門支配豆州加茂郡毛倉野村金山師安井定吉と申す者の手代金掘吉松あひ下り、村方御封山の敷口より金山底まで内見分仕りさふらえども、件の水溜り抜きさふらえども、山花もあひ見え候由のところたしかに承り、このたびの金掘吉松江戸表までまかり登り、安井定吉に直談仕り、規定書一札請け取りまかり帰りそろ間、恐れながら私共右の者共世話仕りまかりありそろに付、村御役人衆中えお願い申し上げ置きそろ、なにとぞお上のご苦難恐れ入り奉りさふらえども、お山盛山仕りさふらはば お国益にもあひなり、なおまた村内一同の潤いにもあひなり申すべくと恐れながら存じ奉りそろ間願い上げ奉りそろ儀に、非常のお願いにはござさふらえども、ご仁恵のご了簡をもってお済口になしくだしおかれそろやう願い上げ奉り候、早速済口仰せ付けられさふらはば、私共は申し上ぐるに及ばず金山師ならびに村内一統有り難き仕合せに存じ奉りそろ間、ひとえにお済口のほど願ひ上げ奉りそろ、よって件のごとし
7 安政2年 青山延寿『常北遊記』
大森林造訳 ふるさと文庫
(安政2年[1855]9月)二十一日晴れ。真弓山に登る。徳善院の主人が二人の子供を道案内につけてくれた。ここから奥州まで、山が切れ目なく続いている。浜辺の村のほかは、すべて山間にある。登ること半里、森を抜けて仁王門を入ると権現の社がある。そのもとに白い石が散り敷いてある。寒水石という。薬の材料にはならない。ここは灌木に覆われていて、眺望がきかない。門前に杉の老木がある。六人でも囲みきれないという。
そこから金沢に向かう。飯盛という山があり、佐竹氏の掘った金鉱の坑道がある。最近大商人が採掘を申請した。きこりの老人と出会い、語りながら行く。老人は採掘・冶金にすこぶる詳しかった。山の麓に二軒の小屋がある。それが精錬場である。坑夫に命じて灯をかかげて坑道に入らせ、私はその後に続いた。坑道の大きさは三四尺[横3尺・縦4尺]で、鑿のみのあとが鋸の歯のようだ。くねくねと曲がりながら行く。仰いだり、うつむいたり、からっと開けたり、ぐっと狭まったり、石がぬめぬめしていたり、水が深くて股までつかって我慢できないほど冷たかったりする。私は双刀を腰にさしているので、なにかとつかえて苦労すること甚だしい。数百歩行って新鉱の所に着いた。利益を尋ねると、百金つぎこんで十金の収益だという。
[原文]
出赴金沢。有山曰飯盛。有金坑。佐竹氏所穿。頃巨商請開坑。余逢老樵談且行。翁談坑冶頗詳。山下有二茅屋。是為冶場。命砿夫秉燭入坑。余従後。坑大三四尺。鑿痕如鋸歯。曲行迂回。乍仰乍俯。或豁然闊。或窄然狭。或石脂滑滑。或水深没髀。冷殆難堪。余佩双刀。俯仰支吾。艱甚。行数百歩。抵新砿。余問其利。日糜百金当得十金。出山。