特別展 のびゆく日立 写真が語る日立の移り変わり
建設まもない大雄院製錬所 1908年(明治41)ごろ
日鉱記念館提供
敗戦直後の日立製作所多賀工場 占領軍納入天井扇風機の生産 1946年(昭和21)
日立製作所多賀工場提供
日立鉱山電車助川停留所 1960年(昭和35) 堀江功さん撮影
夕暮れの神峰公園遊園地 1966年(昭和41) 日立市広報課 草地捷男さん撮影
と き
2005年10月5日(水)–11月27日(日)
休館日
月曜日 ただし10月10日(祝)は開館11日(火)は休館
観覧料
200円(20人以上の団体は1人150円)
高校生以下と65歳以上は無料
内 容
日立市の都市形成の起点となった日立鉱山の開業、そして日立製作所の発展など日立市の鉱工業のあゆみ(主に昭和の戦後期)を柱に、人々の暮らしや都市景観の変貌を表す写真を中心に展示しています。
今から100年前の明治38年(1905)久原房之助によって日立鉱山が開業され、5年後の1910年には日立製作所が小平浪平によって創業されます。このときを境に茨城県北部の農山漁村であったこの地域は急速に鉱工業都市に変貌していきます。昭和の戦時下には人口において水戸市をしのいで県内第1の都市となり、茨城県で最大の鉱工業集積地となります。
太平洋戦争下、「軍需都市」となり、アメリカ軍の空襲を受け、多くの人命を失い、まちは廃虚と化しました。日立市が戦災の痛手からたちなおるのは1950年(昭和25)以降のことです。戦災復興都市計画が着手され、産業活動も軌道にのります。55年には合併があり、日立市は南北に翼をひろげ、「大日立市」に飛躍しました。人口が再び第1位となったのはこの年からのことです。1960年にはじまる高度成長政策によって日立市の産業も順調に発展し、人々の暮しも豊かさをまし、行政も市民福祉に力をそそぎます。この時期の日立市の標語が「のびゆく日立」でした。
1963年にはじまる貿易の自由化は、81年の日立鉱山の閉山をもたらし、85年の円高への誘導は輸出産業である製造業に影響をおよぼし、日立市の産業構造をかえました。
展示している120点の写真は、1905年の日立鉱山開業からはじまり1970年前後までです。写真はまちと市民の動きのすべてを網羅していませんが、写真にしか表れないおおくの事象は、私たちの歴史認識を深く広いものにしてくれるにちがいありません。写真は私たちに静かに語りかけています。それらに耳をかたむけ、現代の日立市をとらえかえしてみることはできるのではないでしょうか。
『写真集 のびゆく日立』
114点の写真を収録 ▲販売終了