石炭と反射炉 黎明期の石炭産業(2)
目次
- 非常有用の品
- 反射炉用石炭と友部村 – 友部村での採掘 – 村の石炭掛りと仕事師 – 採炭経費内訳 – 品質 – 海上輸送
- 参考 石炭の輸送費
- 略年表
非常有用の品
江戸深川の商人が行徳浜の製塩用に多賀郡小豆畑村(北茨城市)で石炭を掘り出した翌年の嘉永5年(1852)6月、水戸藩主徳川斉昭が水戸の家臣に向けて以下のように指示した[1]。
近来⻄洋の事追々開ケ候処、燧⽯・⽯炭等ハ頗有⽤の品に候処、⽔⼾にても秋⼭、野⼝、⼿綱邊よりも⽯炭出候様覚申候処、此先鉄をとかし候抔にハ松炭よりハ⼊⽤も減じ、且⼜萬々⼀異船ノ事⼤く相成、蒸気船にてもなくて不相成様の節にハ⽯炭無之候⽽ハ公邊御⽻翼も勤り兼候事に候へバ郡官へ申達領分何村より⽯炭出候哉、委曲取調申出候様相達調出候ハヽ為⾒候様可致候、燧⽯・⽯炭等⾮常有⽤の品国に有之儀ハ実に天幸に候へバ猥に堀取他国へ出し申間敷旨堅く留⼭にいたし候様可申付候、尤国中にて⽤候分ハ不苦候故、能々可申達候事
斉昭の指示は、領内の秋山・手綱(高萩市)で産出すると聞く石炭は鉄を溶かすのに、また蒸気船の燃料としてきわめて有用なものであるので、産出地を詳しく調べるように、というものであった。石炭の軍事的な有用性が水戸藩に認識されはじめたのである。
なお斉昭のこの指示をだした嘉永5年6月は、オランダの外交官ドンケル・クルティウスが来日し、アメリカが日本の開港を求めるため艦隊を派遣する予定であることを「オランダ風説書」をもって長崎奉行に伝えた時期である。この件は直ちに幕閣に知らされた。斉昭はこの情報に接していたのではないか。
反射炉用石炭と友部村
幕末水戸藩の反射炉に用いられた最初の石炭の産出場所について、従来さまざまに言われてきた[2]。しかし近年では多賀郡友部村であることが確定したといえる[3]。本稿では友部村説を補強する史料をあらためて紹介する。史料はこちら 史料 水戸藩反射炉と石炭 に翻刻した。
友部村での採掘
嘉永7年(1854)7月徳川斉昭は反射炉建設を企図する。翌8月、水戸藩は那珂湊に鉄製の大砲を鋳造するために必要な反射炉の建設に着手した。1年半後の安政3年2月反射炉は完成し、銑鉄からの大砲鋳造が始められた。
最初の石炭採掘は反射炉の完成直前の安政2年末、友部村字川上にある曹洞宗東泉寺の朱印地であった。採掘を命じられたのは友部村庄屋の樫村吉左衛門[4]である。樫村が責任者となって採炭に必要な人員と物品を確保し、採炭し、1万貫(千俵)を川尻浜まで駄送した〈史料1〉。
安政2年12月に「友部村反射炉御用石炭御掘出御入目帳」〈史料1〉を藩に提出した同じ月の14日に友部村庄屋樫村吉左衛門に金百疋が酒代としてくだされた〈史料2(1)〉。理由は「反射炉御用石炭昨年ゟ堀取之儀取扱大儀ニ付」であった。ここに「昨年ゟ堀取」とある。昨年とは安政元年反射炉の建設に着手した年で、反射炉完成前である。つまり反射炉工事と並行して石炭の試掘を含めた所在調査を友部村及び近隣の村において実施していたと考えられる。
反射炉の操業は安政5年7月に中断され、反射炉は閉鎖された。友部村での石炭採掘はこの年の6月まで確認できる〈史料7(6)〉。反射炉はその後文久2年12月に再稼働するが、操業記録は元治元年6月最後に途絶えるという[5]。再稼働のこの時には、石炭は中山氏領の大塚村からも採掘された[6]。
村の石炭掛りと仕事師
最初の採掘から半年ほどたった安政3年(1856)5月、友部村の庄屋樫村吉左衛門と樫村貞介、山部村の樫村彦六・樫村柳介・樫村重衛門の5人は反射炉御用石炭掛を命じられ、とくに吉左衛門には「万端立入、御費無之候様」といろいろと目配りをし無駄な出費がないよう取扱うよう指示があった〈史料2(2)〉。
その翌年安政4年1月、山部村滝の沢で石炭14俵(210貫)採掘した際の経費書上げに「仕事師」の肩書きをもつものが現われる。この仕事師は友部村で初の採掘となる安政2年12月の〈史料1〉に登場しないが、村外の採掘に熟練した者たちのことであろう。1日1朱文が支払われ、のべ8人分として金2分が支払われている〈史料3〉。この額は〈史料1〉にある「土剥取」人足の日当鐚200文という賃金と比較しても高額である[7]。
安政4年12月19日、藩から「石炭堀取方等巧者」の江戸三河町上州屋市左衛門を現地に派遣したとの連絡が入った。樫村吉左衛門に対し、山案内人を用意し、場合によっては「堀取」こともあるので、市左衛門から申し出があれば仕事師をさしだすように、との指示があったことからもわかるように仕事師は採掘を業とする者たちであった〈史料4(4)〉。
採炭経費内訳
友部村で初となる安政2年の石炭堀取り経費の内訳をみてみよう。
事例1 安政2年 〈史料1〉 | ||
石炭1,000俵(1俵10貫入 1万貫) | ||
掘取日雇銭 | 鐚25貫(鐚24文/俵) | 掘出・俵詰め |
駄賃銭 | 鐚29貫164文(鐚28文/俵) | 東泉寺朱印地〜川尻浜 |
縄 | 鐚 2貫48文 | 123房(鐚16文/房) |
藁 | 鐚880文 | 212把(鐚4文/把) |
炭俵 | 鐚14貫10文 | 1,345俵代(鐚10文/俵)
友部村17俵・高原村328俵・入四間村500俵・中深荻村500俵 |
土剥取 | 鐚11貫800文 | 人足59人(鐚200文/人) |
鋤簾 | 鐚2貫600文 | 4枚(鐚628文/枚) 友部村鍛冶屋忠八 |
計 | 鐚85貫510文 | [鐚85文/10貫] |
[ ]は、編者による |
〈史料1〉の表紙裏に、炭俵345俵・鶴嘴10丁・鋤簾4枚を「御預リ申候」と記している。これは藩から現物をあずかったということであろう。上記表にある「土剥取」作業の人足代、そして事例2におおいては土剥取代や道具の書上げないことを考えると、この安政2年後半における石炭採掘が友部村にとって最初のものであったと言えよう。
ついで3年後の安政5年6月分の採炭経費内訳を見てみる。
事例2 安政5年6月 〈史料7(6)〉 | ||
石炭100俵(1俵10貫入=1千貫) | ||
掘出し賃 | 鐚8貫332文(鐚80文/俵) | 仕事師金蔵 |
浜下駄賃 |
鐚3貫748文[鐚37文/俵] | 川尻浜迄 山部村祐四郎 |
炭俵 | 1貫40文(鐚10文/俵) | 110俵 |
麦藁 | 鐚90文(鐚3文/把) | 30把 |
計 | 鐚13貫218文(金2両18文) | [鐚132文/10貫] |
[ ]は、編者による |
この外に立会人として樫村吉左衛門ほか掛り4人が延べ六日間立会人として参加している〈史料7(5)〉。事例1に比して石炭10貫あたりの採掘経費(浜下駄賃を含む)は1.6倍となっている。個別に見ると炭俵・麦藁の単価は変わらないが、掘出賃と浜下駄賃は高騰している。事情は不詳。
品質
安政4年11月28日付で反射炉役人から樫村吉左衛門宛に1通の書状が届いた〈史料4(1)〉。先日の竹下清右衛門[8]の石炭産出地見分のおり、石炭の善し悪しをついての説明があったが、傍らにいて石炭の善悪を理解できたのではないか。急ぎ石炭200貫が必要となったので、良質な石炭を選んで吉左衛門たちの手で掘り出せるかどうか。ついては明後日に上深荻村の宿泊先で返事を聞きたい、という内容であった。
この問合せに村側の責任者樫村吉左衛門は直ちに上深荻村迄出向き、回答したのであろう。諾と。その二日後の30日に石炭200貫を秋山村内から掘出して、来月20日までに至急送るよう指示があった〈史料4(2)〉。その概要は以下のとおり。
完成間近の反射炉[9]の試用として石炭200貫が来月12月20日までに必要となった。ついては秋山村地内の石炭を樫村吉左衛門ほか友部村の掛りの村役人たちが立ち合い、掘り取って川尻浜まで駄送されたい。
この達に別紙があって、石炭掘出しから輸送ついて詳細に注意書きがなされている。秋山村地内の石炭は皆も承知しているように「善品ハ少」ない。だが「極宜敷品計選抜」するように。「少量」なのだから仕事師にはよく申付け、「尤撰抜掘取候ニハ格別手間も相掛」るけれども「少俵」なので吟味して掘り出すこと、その上で雨露がかからぬよう苔のようなもので包んで保管するように、と念を入れた。
そして係の役人は言う。本来なら現地に出向いて指揮するところだが、役所も人手不足でままならず、やむをえず文書で指示する、と低姿勢である。
海上輸送
さらに「海運之都合も有之候へハ成丈取いそき堀取」り、「運漕之都合」もあるだろうから同時に川尻へも通知しておいて、石炭がそろったところで「俵物ニ致し川尻浜へ荷出」するように、かつ今の時期は城米の輸送と重なるが、少量なので積込んで期限までに反射炉まで届けるように、と指示する。
天候により海上輸送が困難であるときは止むを得ないが駄送とする。その場合公定の駄賃で運ぶことは難しいであろうから、相応の駄賃を支払う。附通しで、中途の宿駅の森山村(日立市)で積み替えるだけにして[10]、湊村まで運ぶこと、というものであった。
藩から命じられた納期を守れないことがあった。原因は海上輸送によっていたからである。
安政5年(1858)1月9日付で友部村山横目に宛てて石炭1,000貫を掘出し、22日までに届けよとの指示があった〈史料6(2)〉。ところが、1月29日付の達が2月2日に届いた。そこには1月23日までに届けるよう指示した石炭1,000貫が届いてないとして、友部村山横目に遅延の理由書提出を求めた〈史料6(4)〉。
これに友部村山横目は、その日の内に遅延理由書を書いた。川尻浜まで送ったのだが、天候が悪く高浪のため出船できないでいると〈史料7(1)〉。
さらに2月13日付の達が届いた〈史料6(5)〉。
湊御製銃所御用石炭之義者追々相達候振有之所に今不着、甚扱不行届致方と相察候、右者来ル十七日方迄ニ漁船ニ而なり、いつれ之道運漕送、速ニ可取扱候、此段急申達候
いまだ石炭が届いてない、漁船に積むか、駄送するか、17日までに届けるようにとの達であった。藩の役人は廻船ではなく小回りの利く漁船なら海上輸送が可能だと考えたのである〈史料6(5)〉。あわてぶりがうかがえる。
馬の背に積んで陸上を行けば、約46キロメートルの道程。1俵10貫、2俵(約80キログラム)を馬1頭に積んだとして、1000貫は駄馬50頭分。一日で歩ける距離ではあるが、馬とて重い荷を背負う。途中で一度は交代する必要がある。当時であっても駄馬50頭を一時に調達するのは容易ではない。なぜなら他に公用・商用の荷物が海道を行き来しているからである。これらのことは反射炉役人でさえ分かっていたろう。彼らのいらだちが伝わってくる。
海上輸送の不安定さ示す次のような史料がある〈史料9〉。差出人は東郡奉行所の役人、宛先は平潟村の廻船問屋菊池半兵衛。時期不詳。
これによれば、反射炉用の石炭300俵余を川尻村舟庄屋勝間田半兵衛所有の船に積込んで出帆したのだが、時化が続いて南下できず、北方の平潟村(北茨城市)沖まで流され、ようやく平潟湊に避難できた。一日でも早く石炭がほしい反射炉役人は、天候が回復次第ただちに平潟湊を出帆させようと、廻船問屋を通じて船頭に伝えるよう達したのである。
- [註]
- [1]『水戸藩史料 別記下』。秋山・手綱とならんで石炭産出地という「野口」は不詳。
- [2]『水戸藩史料 上編乾』(1915年)、清宮一郎『常磐炭田史』(1955年)、『櫛形村誌』(1956年)、岩間英夫『ズリ山が語る地域誌』(1978年)、『水戸市史 中巻3』(1984年)、『いわき市史 常磐炭田史』(1989年)など。
- [3][6]鷺松四郎「松岡領における石炭採掘について」『茨城史林』第3号(1974年)、『十王町史 通史編』(2011年)
- [4]樫村吉左衛門は多賀郡友部村の人。嘉永5年(1852)郷士、嘉永6年8月、28歳で友部村庄屋、安政3年(1856)7月には山横目に任じられる。山横目としての管轄区域は、砂沢・折笠・川尻・伊師・伊師本郷・友部・山部・高原・福平の9ヶ村である(友部樫村譲家6−21)。
- [5]茨城県立歴史館『那珂湊反射炉』(2024年)
- [7]〈史料1〉では石炭10貫を採掘するのに24文。〈史料3〉では仕事師に10貫あたり155文余を支払っている。
- [8]竹下清右衛門:薩摩藩士。嘉永元年(1848)薩摩藩鋳造方、翌2年長崎留学。嘉永7年4月徳川斉昭から薩摩藩主島津斉彬に竹下の招聘を打診し受入れられ、翌月大島高任らとともに水戸藩に招かれる。
- [9]第2炉である東炉のこと。安政4年12月23日完成する。
- [10]山部村から湊村までおよそ46キロメートル。森山の宿駅はその中間にあたる。
参考 石炭の輸送費
「史料 水戸藩反射炉と石炭」の末尾に参考とし翻刻した「文久3年8月 石炭一俵あたり山部村から茨城郡大貫村まで諸掛り書上」は、石炭の輸送費を知り得るものとして収録した。大貫村(大洗町)海上輸送費は採掘費をも上回り、総額の36%、川尻浜までの駄賃を含めると大貫村までの輸送費が総額に占める割合は48%に上る。加工されない石炭を商品とする場合、輸送費がその炭価に占める割合が高いことはこれによっても知られる。
なお、本史料は実際の採掘実績ではなく見積書である。作成事情は不明であるが、水戸藩から大貫村まで送る場合の経費の試算を指示されて作成されたものであろう。大貫村は石炭の消費地ではない。大貫村は位置的に湊村(ひたちなか市)・磯浜村(大洗)、そして涸沼川から那珂川に接続する地で、鉾田村(鉾田市)まで陸送し、その後は水運によって北浦・利根川・中川をたどるという江戸方面への当時の一般的な物資輸送経路の中継地点である。
略年表
嘉永6年 (1853) |
6月3日 アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー、軍艦4隻を率い浦賀に来航 | |
嘉永7年 安政元年(1854) |
1月16日 ペリー、再び神奈川沖に来泊
3月 藩主徳川斉昭は反射炉の建設を企図 5月 反射炉建設のため、大島高任(南部藩)・竹下清右衛門(薩摩藩)・熊田嘉門(三春藩)を招聘 8月23日 湊村に西炉(第一炉)の基礎工事に着手 —・— 水戸藩、多賀郡友部村庄屋樫村吉左衛門に命じ、反射炉用石炭を掘出す〈史料2(1)〉。場所は友部村東泉寺朱印地か |
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安政2年(1855) | 1月20日 反射炉本体工事着手
12月 友部村樫村吉左衛門らは、友部村東泉寺御朱印地から採掘した経費に関して「反射炉御用石炭御掘出御入目帳」を作成し、藩に提出〈史料1〉 12月 樫村吉左衛門、石炭掘出し慰労金として藩から金100疋(1/4両)を賜る〈史料2(1)〉 12月 25日 水戸藩反射炉西炉(第一炉)完成 |
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安政3年 (1856) |
2月 昨年12月に藩に提出した石炭掘出し経費書上帳に基づき藩からの預り金を精算〈史料1〉
5月 水戸藩、友部村庄屋樫村吉左衛門・友部村樫村貞介、山部村樫村彦六・樫村柳介・樫村重衛門の5人を反射炉用石炭採掘掛に命じる〈史料2(2)〉 |
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安政4年
(1857) |
1月 反射炉用石炭採掘掛ら山部村滝の沢で石炭を掘り出す〈史料3〉。「仕事人」の初参加
11月28日 反射炉用石炭採掘掛の友部村山横目樫村吉左衛門は、反射炉役人から高品質の石炭を採掘できるかの下問を受ける〈史料4(1)〉 11月30日 反射炉用石炭採掘掛、山部村隣りの秋山村地内から石炭200貫を掘出し、川尻浜へ駄送し、城米とともに船に積込み、12月20日までに湊浜まで届けるよう指示される〈史料4(2)〉 12月23日 東炉(第二炉)完成 |
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安政5年 (1858) |
1月 4日付の石炭堀取場所の再調査達が友部村山横目宛てに届く〈史料6(1)〉
1月 9日付の友部村山横目に宛てて石炭1,000貫の掘出し達がある〈史料6(2)〉 1月29日 23日までに届けるよう指示した石炭1,000貫が届いてないとして、友部村山横目は遅延の理由書提出を求められる〈史料6(4)〉 2月2日 これに友部村山横目は、川尻浜まで送ったものの、天候が悪く高浪のため出船できないでいると回答〈史料7(1)〉 2月13日 いまだ石炭が届いてない、漁船に積むか、駄送するか、17日までに届けるようにとの達〈史料6(5)〉 4月 友部村山横目・石炭山懸り役人へ「苗代旁盛農」期ではあるが、石炭2,000貫を掘出すよう達がある〈史料6(6)〉 6月 6日、友部村山横目へ石炭1,000貫を掘出し、14日までに届けるよう達がある〈史料6(7)〉 7月 友部村山横目は正月・2月・4月・6月の合計578俵の石炭掘取りを報告〈史料7(5)〉 幕府による前藩主斉昭の不時登城を理由とする謹慎、藩主慶篤の登城停止処分により、反射炉事業は中断 |
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文久2年(1862) | 12月 反射炉再稼働 | |
元治元年(1864) | 6月 反射炉再停止 |
主要参考論文・文献
- 鷺松四郎「松岡領における石炭採掘について」『茨城史林』第3号(1974年)
- 十王町史編さん調査会『十王町史 通史編』(2011年)
- 茨城県立歴史館『那珂湊反射炉』(2024年)