琉球国船が川尻に
文政2年(1819)5月13日、常陸国多賀郡川尻村に琉球国の廻船が漂着した。乗組員がこの地を去るまでの経過を紹介する。
この事件に関する史料(以下の5点)をこちら 史料 文政二年 琉球船常陸国多賀郡川尻村漂着一件 PDF文書 にまとめた。
- 史料1 松岡家中御郡方御用留類聚
- 史料2 続水戸紀年
- 史料3 水戸下市御用留
- 史料4 通航一覧
- 史料5 海防之集説〈琉球国船図〉
この事件について、もっとも詳しく記録しているのは「通航一覧」である。これに基づいて記述していく。
琉球国の船を川尻沖に発見
琉球国船図 「海防之集説」より
文政2年(1819)5月13日早朝、川尻村の小型漁船が漁からの帰途、「怪敷船」を見たと、川尻村の庄屋に届があった。船は琉球船で、乗っているのは琉球人にちがいなく、言葉がわからないところがあるけれども、船は「商船」のようだった。船を川尻浜の陸近くに繋留させた。帆柱を切っており、難事であるとして、川尻村の役人たちは水戸藩の石神郡奉行所(那珂郡石神外宿村−現東海村−にあった)へすぐさま届け出た〈史料1〉。
「商船」とは、あきないぶねと読んで、近世では、船主または船頭が荷を積んで各地を商売して回る船をさす場合が多いが、川尻村の庄屋らも当初この認識であった。
漂着するまで
翌14日未明、水戸藩からは目付・先手物頭・小十人目付・徒士目付、そして石神郡奉行・筆談役として彰考館学生らが川尻に到着した。調査が行われ、以下のようなことが判明した〈史料2〉
船主は琉球国泉崎村(沖縄県那覇市)の仲村渠で、船頭は当銘といい、水主(乗組員)の玉城ら11人が乗り、琉球国王の年貢米を積んで、領地の八重山島に着き、閏4月16日八重山島を出て泉崎村に帰るさい翌17日颶風(大風)にあい、大檣(大帆柱)を切り倒し、ひと月ちかく風にまかせて漂流をつづけた。
川尻村に最初に上陸したのは船頭当銘と水主1名、船頭の当銘だけが「日本の詞」を使うことができた。その当銘による上陸当日付の事情説明書「覚」は次のとおりである。
覚
私共乗船之儀、中⼭王年貢⽶積越⽤⼋重⼭島江相渡り、年貢積⼊、閏四⽉⼗六⽇彼島より出帆仕候処、次⼗七⽇逢⼤⾵、梶本⽊波に被打折、⼗死⼀⽣之涯に相成、⼤檣切捨、⾵謐当御地漂着仕申候間、御改被仰付可被下候、以上
琉球船主
泉崎村渠筑登之船主
卯五⽉⼗三⽇ 当銘
乗組員 — 全員無事
船頭と水主はみな琉球国東村(那覇市東町。泉崎村の西隣)の出身で、乗組員の名と年齢がわかっている。船頭当銘は43歳で最年長、最年少は23歳、水主の平均年齢は32歳。
彼たちの姿は次のように記録されている。
⼈物皆柔和に相⾒候。髪ハ平⽣丈け⻑く蓄ふる由ニ候得共、此度漂流寒苦に由て、神明を祈り各髪をたち詰候由也。此⽅の⼭伏のことくまとひ居候也。
衣装については
皆からむし〈苧麻〉にて作り候由。⾄極の麁布なり。仕⽴はゑりを広くして、⼀⾯に幅広に縫⽴候。帯ハ⼀はゝものをよりなしに前にて両膝に結ひ下け、常に⼿拭の様なる物を腰に挟ミ居候なり。
川尻の庄屋宅で — シケヂャカラ
船頭当銘と水主一人が上陸し、庄屋藤左衛門宅にあがると次のようなやりとりがあった。
時に七⼗五歳に相成候⽼⺟有之候を⾒て、ナンヂヤと申候由、庄屋の妻ヲヤと答候得は、いくつになると申候由、七⼗五になると申候へハ、我等もヲヤは⼋⼗五になると申て、涙を浮へ⼿を合て、我を案し候事にも可有之と申仕形を致し候由、殊勝なる事に有之候。
其後茶を出し候へハ、茶臺へ式礼有て茶を飲候様⼦、此⽅の⼈に異る事なし。何そ給へ候やと申候へハ、不分様⼦に付、仕形にて⾒せ候得者、⾄極悦ひの様⼦⾒えけるにより、肴もなくてと申候ヘハ、シケヂヤカラと申候
庄屋宅にいた老母を見て、どなたかと当銘がたずねると、藤左衛門の妻は親ですと答える。歳が七十五だと知ると、私の親は八十五になると当銘は言い、涙を浮べ手をあわせて、今頃は私を案じていることだろうというしぐさをした。
琉球船の川尻浜漂着から5年後に次のようなことがあった。文政7年5月28日、イギリスの捕鯨船員12人が大津浜(北茨城市)に上陸した。このイギリスの漁師たちが大津町に上陸して監禁状態にあったとき、村の女性が乳飲み子を抱えて異国人見物にやってきた。その母子を見た船員の一人は涙を流した。遠く故郷に残してきた父母や妻子をこの異国人は思い出したのであろう、とその光景を見ていた大津浜の村人はたちは考えた。この村人たちは捕鯨船員の心によりそうことができたのである(『水戸藩の海防史跡をたどる』日立市郷土博物館発行)。
閑話休題。庄屋が茶をだすと、おいしそうに飲む。肴をだせなくて、と庄屋がすまなそうに言うと、当銘は海は時化ているのだから、肴が出ていなくとも当然だ、と返答する。そしてもうひとつ。自分たちもその時化にあったのだから、という二重の意味が「シケヂャカラ」にこめられていよう。
海を暮しの糧としている者同士のやりとりである。
船の種類 — 馬艦船
「通航一覧」はこの琉球船大きさについて、長さ十四五間云々と。そして
清朝福建州の船に似寄候得共、削⽅制作⾄て麁抹にて、危様に相⾒え候。
清国福建省の船に似ているけれども、削りかたなど造りは粗末で、あやういと。
しかしこの船は馬艦船という種類のもので、近世の琉球海運で活躍した二本マストの航洋性の高い商船で、船型・構造とも中国の技術を導入し、その堅牢性や帆走性能は和船をしのいでいた。琉球政府の規定では、小は五反帆・八十石から大は十二反帆・三百四十石積とされていて、帆に蒲帆を使用するなど琉球独自の技術をとり入れている、と。さらに和船と違い、水密甲板を持ち、船体が幾つもブロックで仕切られているので、浸水しても沈没しにくい構造になっていた(『日本国語大辞典』)。
台風に遭って、ひと月ちかく漂流し、転覆せず、乗組員全員が無事であった。それは船の構造にあった。もちろん船頭の的確な判断、水主たちの操船技術の高さもあったにちがいない。
なお『日国』は2本マストというが、「通航一覧」は「帆柱三ヶ所」と言い、図にもあるように3本マストであった。そして図には船頭の言うように長さ5間あった大檣は折れて短くなっている。
運んでいたもの — 年貢米・樫木
漂着した船を渚に引きよせ、中をあらためると、粟・小麦・玄米が積みこまれていた。だが輸送しようとしていたものは、(1)年貢米(2)樫木、とする2種の記録がある。
水戸藩の記録〈史料2〉と船頭の当銘の訴状(覚)は中山王の年貢米だという。しかし「通航一覧」の別の箇所では樫木だという。
彼地に於て、中⼭王⼤美殿と申殿の普請材⽊樫⽊数百本積⼊候よし、是⼜漂流の中不残海中へ投⼊……所持の材木一本も無之
彼の地–八重山島において琉球国の大美殿(琉球国王の別邸)普請材木として樫木を数百本積み込んだが、漂流中にすべて海中へ投げ入れた。
八重山島の樫木とは、オキナワウラジロガシ(別名:ヤエヤマガシ)のことかもしれない。この樹木は堅く緻密で、琉球国時代の首里城正殿の柱や梁に用いられたという。
いずれが正しいのか、あるいは両方とも正しいのか、わからないが…。
帰国へ
水戸藩の役人たちは協議して、乗組員の一時的な住まいを用意することにした。空いていた村の炭蔵を漂着から五日後の18日までに改装を終えた。
川尻滞在中、漂流人には一汁一菜と「綿⼊、蒲団、蚊帳、笠、脚絆、草鞋、⾜袋」が与えられた。
漂着した船をあらためると、鉄製と木製の碇、手桶、縄、白米・伝馬船・味噌壺・菜櫃が残されていた。これらの物品は「船及荷物皆入札払」〈史料2〉された。
6月10日、薩摩藩江戸屋敷の役人3人、総勢16人が川尻に到着。船員たちを引きとり、7月1日、江戸に向けて出立、そして8日に江戸を発った。
薩摩藩が琉球国人を引き取りに来たのは、「昔年より琉球船漂着の時ハ、何国にても島津⽒に引渡し、薩摩より帰国せしむる御制度」であったからである。
薩摩藩の役人が迎えに来るまでひと月ほどかかり、それから二十日ほどして川尻を出発している。琉球人たちの川尻の滞在期間は48日間。長い。「水戸下市御用留」〈史料3〉は6月の記録であるが、そこには薩摩藩から役人がやってきて、水戸藩からの引渡しがさなれ、水戸の役人は引上げたものの「未タ逗留之由」と記しているので、誤記ではない。薩摩藩の役人は二十日ものあいだ何をしていたのだろうか。何があったのであろうか。