会瀬浜魚荷が抜荷を疑われる
— 荷口銭・出判・改所 —

天保2年(1831)8月、水戸城下下町本五丁目(水戸市本町3丁目 肴町)の問屋石田与衛門は水戸藩評定所から呼び出しをうけ、「不調法」につき「呵押込」の処分を言い渡された。理由は、さかのぼること3年前の文政11年(1828)に多賀郡会瀬浜(日立市)の生魚荷物を「抜荷」だとして没収しただけでなく、預った魚荷を紛失してしまったからであった。

目次


以下、本稿で用いた〈史料1〉〜〈史料9〉および〈参考史料1〉〜〈参考史料9〉の全文は こちら

経緯

この事件のいきさつを記録した「水戸下市御用留」[1]によれば、経緯は以下のとおりであった〈史料1〉

文政11年(1828)、会瀬浜の魚荷を勝倉(ひたちなか市)から水戸海道の上石崎(茨城町)に向けて馬の背に載せ運んでいた沢村(ひたちなか市)の長次郎が「抜荷」をしているとして、渋井村(勝倉村の那珂川の対岸 水戸市)の馬子たちが古宿村(水戸市元吉田町)で見とがめて、下町の問屋までつれて行った。

問屋石田与衛門は荷を馬の背から下ろさせ、荷鞍をとりあげた。沢村の長次郎の言い分も聞き入れず、生魚荷の輸送を遅らせ商品としての価値を失わせてしまっただけでなく、問屋前におろさせた荷物のうち4箇半を紛失してしまった。

それから3年後の天保2年、藩は問屋役として不適切な取扱いであるとして、問屋石田与衛門を「呵押込」に処したのである。

抜荷だったとしても、その場で「荷口銭」を徴収すればよいだけのことである。荷を紛失してしまうという問屋の不手際に会瀬浜の荷主の怒りは収まらなかった。会瀬の荷主は藩に訴え、2年後に藩の裁定がくだった、という経過であろうか。

  1. [1]茨城大学附属図書館編『水戸下市御用留(六)』1996年 (p.52)

魚荷の抜荷とは

抜荷とは、荷口銭を藩に納めずに他領に売りだすことをいう。

文政4年(1821)7月、吉村伝衛門(浜田組郡奉行)と梶清次衛門(石神組郡奉行)[2]が下問をうけた〈参考史料4〉。下問した人物は不詳。

他所出之生荷抜荷多有之歟ニ相聞候ニ付、於御肴方他領之問屋トモ荷受帳ヲ改、抜荷之分追々御収納有之候得共、御領内之粗忽ヲ他へ顕候姿ニ付、以来抜荷無之様濱々之本ニテ改方、左之通為取扱候テハ故障之義可有之我、両扱申合否早々可被申出候

(大意)他所(他領)へ出す生魚荷について抜荷が多いと聞く。それには肴方において他領の問屋の荷受帳を調査し、抜荷と判明したものは、おいおい徴収すればいいが、領内の汚点を他領に知られたくないので、今後は抜荷がないよう根本から対策をたてる必要がある。吉村・梶両人の考えを聞きたい。

このように下問者は趣旨を述べ、(1)荷口銭取立の時機(2)荷口銭の賦課がない入津物との区別(3)荷口銭の賦課がない城下売荷・領内向荷と他領向荷の区別(4)村で発行する出判(荷口銭納入証明書)の確認場所、これら4点について課題と改善法をあげた。

これに郡奉行両人の返答が示された〈参考史料5〉。本稿ではこれ以上立ち入らないが(別途紹介の予定)、後述する「出判改所」の設置につながる動きである。

  1. [2]吉村と梶が郡奉行であるとは、この文書に示されていないが、仲田昭一「水戸藩郡制の変遷と郡奉行」(『茨城県立歴史館報』第17号)により判断した。
     浜田組は大貫・磯浜・湊・平磯村など、石神組は久慈・水木・河原子・会瀬・川尻村など漁村を含む地域を管轄する(水府志料)。

抜荷を疑われた理由

上記御用留の文言には渋井村の者たちが会瀬浜の魚荷を抜荷と判断した理由は示されていない。推測してみる。

会瀬浜を出た生魚荷は、岩城海道を水戸へ向かった。途中の沢宿(ひたちなか市)で荷継をし、そのおり通常なら市毛(ひたちなか市)から枝川宿(ひたちなか市)で那珂川を船で渡り、下町(水戸市)に出て水戸海道にでるのだろうが、このとき沢村の馬士(馬方)長次郎は岩城海道をはずれ東の勝倉から那珂川を渡り、涸沼河畔の上石崎に向かった。上石崎から涸沼川を渡れば海老沢河岸がある。その海老沢から巴川、北浦への水運を利用しようとしたからではないか。荷物は生魚である。一刻もはやく消費地に届けなければならない。出判改所(後述)が設置された水戸下町を通過しない道筋をとったことが抜荷を疑われた理由なのではないか。

魚荷口銭

魚荷口銭とは水戸領内で獲れた生もの、あるいは加工された魚貝類を他領へ出荷する際に藩に納めるもので、その額は次のとおり定められた〈史料2〉

区分単位魚種
上肴1駄(36貫)鐚300文鯛(たい)・鱸(すずき)・きす・魴鮄(ほうぼう)・そひ(そい メバル)・鰈(かれい)・あいな⽬・鰤(ぶり)・鱈(たら)・いなだ・鮑(あわび)/鯉(こい)・鮒(ふな)・鱒(ます)/あかふ・王餘⿂・⽯⾸⿂
下肴1駄(36貫)鐚150文⽣鰹・塩かつほ・鰹節・鯖(さば)・鰶(このしろ)・さか・えび・れんて・鮫(さめ)

この荷口銭の徴収は、宝永2年(1705)に始まった〈史料3〉

水戸肴町問屋

水戸藩領においては当初(元和・寛永ごろ 17世紀前半)領内の各浜で捕れた魚はいったん水戸城下の肴町問屋(上・下町に両方にあり)に集められ、藩が必要とするものを藩の肴方へ納め、残った魚を城下町で売る、あるいは他地域に出すなり、魚商人の自由にさせたという[3]

天保2年(1831)7月、城下肴町問屋たちが魚荷取扱量が減少し「当時無商売同様」の「浮沈之堺」にあるとして藩に窮状を訴えでた〈史料4〉。そこに次のような記述がある。

往古肴町之儀寛永二丑年中御開闢被遊候御砌、御町割節、弥本肴町肴問屋御立被下置、肴商売類寄被 仰付…御領内浜々ゟ漁事之肴荷物、丸々肴町問屋指出相捌、中買之者共買請、御城下近在迄も夫々ニ商売仕候様御控被下置…

寛永2年(1625)、徳川家による水戸城の大修築のおり町割がなされ、そのおり肴町と肴問屋が設けられ、「肴商売」を命じられた。領内の浜からの魚荷物はすべて肴町問屋に集められ、そこで仲買人が買い受けて城下や近郷の村々に売捌いてきた、と言う。そして、肴問屋が困窮すれば「御肴方御役所様[4]御用御買上之節も御指支ニも可相成候」と訴える。

この記述を裏付ける寛永4年の藩の各浜への達がある〈史料9〉。そこに示されているのは以下の通り。

江戸初期、水戸城整備の一環として領内各浜の漁獲物の流通を城下町に集中し、統制しようとする藩の姿勢を知ることができる。流通の実態とは別にこのような意志が藩にあった、ということである。

  1. [3]江原忠昭編『水戸の町名』1985年 水戸市立図書館/デジタルアーカイブ
  2. [4]時代が下るが、天保10年の「江水御規式帳」(茨城県史編さん近世史第1部会編『江水御規式帳』)に、御肴奉行に市毛谷衛門、御肴方手代に井出辰三郎・清水安太郎・樫村伊三郎の3人の名がある。

北浜魚荷の順路往来勝手しだい

領内浜からの魚荷はすべて水戸城下肴町問屋を通すという規定であったが、時代が下ると守られなくなった。藩はそうした現状を追認するようになる。

宝暦11年(1761)9月、藩は湊・磯浜・大貫浜から江戸へ向けた諸魚荷物は、水戸海道の宿駅である長岡村(茨城町)に直接出すことを認めた。ただし湊・磯浜・大貫に平磯を加えて、この4ヶ浜が西場(西筋)へ出荷する場合は、これまでの通り水戸城下の下町へさしだすように指示した〈史料5〉

その2年後、宝暦13年(1763)12月、藩の達を水戸下市の町役人は次のように記録した〈史料6〉

(1)江戸に送る魚荷はいかなる道筋をとってもよい。(2)水戸城下に送るものは必ず上下町の肴問屋を通すこと。(3)西筋へ出す魚荷は、大貫・磯浜・湊・平磯の四浜についてはこれまでの通り下町の肴問屋を通すこと。(4)村松から北の浜々は、西筋への出荷にはどのような順路をとってもよい。藩の指示は以上の内容であった。

出判改所

藩は抜荷対策として「出判」を発行することとした。文政5年(1822)12月、「出判改所」を設置する旨の水戸藩の達〈史料7〉が以下のように示された[5]。従来、領内の浜(産地)から他所へ売り出される魚荷はすべて城下の肴問屋を通すことで売買への課税である「荷口銭」を取っていた。ところが城下肴問屋を通さずに、産地から消費地へ直接届けられるようなった。それを「抜荷」と言っている。そこで藩は他領に向けた魚荷に出荷地において荷口銭を徴収し、その証明書として「出判」を発行した。その出判をチェックする「出判改所」を輸送経路の要所に設置したのである。

濱々他所出之魚抜荷多相聞、於御肴方ニ他所之問屋相糺、抜荷役銭取立ニ相成候得共(中略)、已来抜荷無之様濱々之元ニ於テ改方行届候様先達相達候処、是迄濱々之出判、下町肴問屋へ計引替致モ不行届、出先ニ寄魚荷通行之不便利モ可有之候ニ付、他所出道筋夫々之最寄へ出判引替所右之通相定候条、以来心得違無之様濱々へモ屹ト可被申付

(大要)領内の浜から売りに出される魚荷が「抜荷」される事例が相次いでいる。御肴方において調査し、先に出荷地である浜々に抜荷しないよう達したところだが、水戸城下の下町肴問屋ですべての出判チェックには無理がある。魚荷すべてが城下の肴問屋を通過することはなかった。生産地と送り先によっては水戸城下を経由することは時間と輸送経費の無駄であったからである。たしかに鮮度を保ちたい生魚は一刻も早く消費地に届けなければならない。そうした事情を藩は理解できるので、これからは他所に出す道筋それぞれに「出判引替所」を開設するものである。

  1. [5]大内地山『茨城県水産誌 第一編』p.145–147。差出人と宛先を欠いている。なおほぼ同内容の文政6年3月の達が『茨城県史料 近世社会経済編Ⅳ』p.263に「五二 文政六年水戸藩荷口改方の件につき達」として収録されている。

出判改所が置かれた地

この達に示された改所に関する記述を簡略化したうえで下表に示す。

領内の出荷地(漁獲地)を大きく根浜・北浜・三石崎と分ける。根浜とは茨城郡の大貫・磯浜(大洗町)、那珂郡の湊・平磯・前浜などをさすのだろう。北浜は久慈郡久慈、多賀郡水木・河原子・会瀬・川尻など。三石崎とは涸沼北岸の上石崎・中石崎・下石崎村をさすのであろう。

ここには多賀郡の大津浜(北茨城市)の記載がない大津村は広く水戸藩領ではあるので、地理的には北浜に属するが、中山氏知行地として別扱いとなっていた[6]

「南筋江戸等」を「南筋・江戸等」と解釈する。それは石岡・土浦など千住までの水戸海道にそった宿駅のある地域を南筋と考えられるからである。

この表からはそれぞれの浜がどの地域を主たる消費地としていたかもうかがえる。

  1. [6]『茨城県史料 近世社会経済編Ⅳ』「五三 文政八年多賀郡大津浜出し魚荷口銭徴収一件」による。
出荷地  出判改所 経由地 出荷先
三石崎[7]・惣浜 上・下町肴問屋
(水戸市)
笠間 西筋
〈惣浜〉 磯濱・大貫堺
(大洗町)
南筋・江戸等  
磯浜(大洗町)・
湊村小川河岸[8]
大内村[9](那珂市) 〈那珂川舟運〉 〈西筋〉
根浜 海老沢村[10]
(茨城町)
〈南筋・江戸〉
根浜・北浜 大山村[11](城里町) 伊勢畠[12]
飯野[13]
西筋
根浜・北浜 馬頭村
(栃木県那珂川町)
西筋
北浜 菅谷村(那珂市) 赤塚・加倉井
(水戸市)
西筋
北浜 部垂村[14]
(常陸大宮市)
烏山(那須烏山市)
宇都宮
北浜 太田村(常陸太田市) 小倉・岩崎  
(常陸大宮市)
西筋
川尻(日立市) 折橋村(常陸太田市) 白川・白坂
(福島県白河市)
川尻 大子村(大子町) 黒羽(栃木県大田原市)
諸河岸・細谷[15] 野田村[16]
(常陸大宮市)
〈那珂川舟運〉 〈西筋〉
  1. [7]三石崎:茨城郡上石崎・中石崎・下石崎村のこと。これら3村は水戸藩領で、南に涸沼をのぞむ。対岸の宮ヶ崎・網掛・田崎村は幕府領。
  2. [8]湊村小川河岸:ひたちなか市栄町1丁目にあった河岸。河岸の対岸には涸沼川河口がある。
  3. [9]大内村:那珂郡。那珂川左岸。河岸がある。
  4. [10]海老沢村:鹿島郡。涸沼の南西岸。涸沼水運の荷受河岸がある。
  5. [11]大山村:茨城郡。天保期に阿波山村と改称。那珂川右岸。村内を「烏山道」がはしる。現城里町。
  6. [12]伊勢畠:那珂郡。那珂川右岸。河岸がある。現常陸大宮市。
  7. [13]飯野:下野国芳賀郡飯野村。谷田部藩領。那珂川右岸。河岸問屋があり、湊・磯浜など水戸領との取引があった。
  8. [14]部垂村:那珂郡。水府志料に「太田辺より笠間筋への道筋なり…保内領より水戸城下への往還筋なり」とある。天保14年大宮村に改称。現常陸大宮市。
  9. [15]細谷:茨城郡細谷村。水戸城の東、那珂川右岸。南は下町、北は那珂川を隔てて枝川村。河岸があり、那珂川上流地域から舟運による諸荷物がここでいったん荷受けされ、ここから先、海老沢村や湊村へ積み出された。また岩城海道の宿駅である枝川村の間に船渡しがある。現水戸市。
  10. [16]野田村:那珂郡。下野と常陸の国境、那珂郡左岸。荷受河岸がある。「水府志料」に「水戸より茂木、烏山への往来なり。…渡し場あり。荷受かしあり。上[小]川かし、黒羽、左良土等の荷物はかりを中次す。水戸かしへ運送す」とある。現常陸大宮市。

附録 大津浜魚荷と大子出判改所一件

文政8年(1825)、多賀郡大津浜(北茨城市)の五十集が魚荷物を下野へ送ったおり、大津浜で荷口改人の点検を受け、荷口銭を納め、出判を持参したのだが、大子の出判改所においてさらに荷口銭148文の納入を求められた。大子の改所の言い分は、大津浜は中山氏領(別高)であるため「大子之荷口御免之御達無之候ハ取扱かね候」というものであった。ここにあるようにトラブルの遠因は水戸領と水戸領でありながら別高の中山氏領(松岡領)の魚荷の取扱いかたの違いにあった。

この一件に関して水戸藩肴方と中山氏郡方手代とのやりとり文書5点が中山氏側の御用留に記録されている〈史料8〉。ここには荷口銭支払い、出判の発行手続き、出判の用い方などが具体的に記されているのでこれらを以下に要約する。


■魚荷の流通について、水戸肴町問屋のこと、魚荷の荷口銭・出判・改所に関しては、まだまだ説明しなけばならないことがあります。おいおい記事を追加していきたいと考えています。