河原子波限不動尊碑
目次
- 碑について
- 波限不動尊とは
- 波限不動尊紀年碑 碑文読み下し
- 撰文は神職
- 遭難と碑文
- 河原子の寺
- 碑文原文
2023年3月撮影
碑について
題額に「波限不動尊紀年碑」とあり、高野山の座主宥範の書になる。撰文は宮田篤徳、建立時期は不詳だが、宮田の文は1910年(明治43)秋に著わされている。裏面には発起人7人の名、寄付金額とともに寄付者およそ90人の名が刻まれている。高さ2.55メートル、幅1.15メートル。石工は諏訪町の鯨岡助七。
この碑の内容をつづめて言えば、1886年(明治19)に火災に遭って本堂を焼失するが、本尊の波限不動尊は難を逃れた。1900年(明治33)に本堂を再建。しかし35年に暴風により大破し、42年に本堂の復旧が企図され、再建なったというものである。
波限不動尊とは
波限は「なみきり」と読むのであろうか。有名な波切不動尊像は高野山南院の波切不動明王像(重要文化財 1908年指定)。この像は、弘法大師空海が赤栴檀の霊木をもって自作したと伝えられる。空海が唐よりの帰途、嵐に遭い海上荒れ狂うさなかこの不動明王に祈願したところ、全身から光を放って荒波を切り鎮め空海を救ったという伝承から浪切不動明王(不動尊は尊称)とされる。
波限不動尊紀年碑 碑文読み下し
日立市郷土博物館において公開されているひたち碑の会の調査記録によった。書き下し文は大森林造さんによる。
[題額]
波限不動尊紀年碑
高野山座主
大僧正宥範書 [1]
[本文]
本堂は古来、滝王山不動院南光寺[2]と号す。其の創立は今ま不詳と雖も、古老の伝説に、弘法大師の開基にして、本尊は波限不動尊と称し、紀州高野内の波限不動尊像と倶に一刀三礼の同作なり。往昔、源義家、軍に奥州に赴くや、此の地に次り、戦捷を本堂に祈る。爾来、信仰稍や加わり、感応も亦た顕著と云う。明治十九年、回禄の災に罹り、堂宇及び什物悉く烏有に付す。独り本尊霊像のみ幸いに其の難を免る。三十三年、里民協力して新たに堂宇を建て、稍や旧観を復す。而して三十五年、又た暴風の破壊する所と為る。四十二年、発起人ら本町諸有志と謀り、各々義金を醵す。立ろに巨額を得たり。是に於いて堂字を修繕し、葺くに銅板を以てす。且つ寺域を拡げ、石垣を築き、花樹を植う。頗る荘厳なり。抑も本望は海に臨んで丘に拠り、地勢高塏、風景絶佳、故に河原子八勝の一に居る。即ち「不動秋月」是れなり。発起ら之れを碑石に勒し、以て永久に伝えんと欲し、題額を高野山法師大僧正に、文を余に乞う。余乃ち其の梗概を叙し、以て後人に示すと云う。
明治四十三年庚戌季秋 宮田篤徳[3]撰 北条時雨書
- ◦一刀三礼 イットウサンライ。仏像を彫刻するとき、一刻みするたびに三度、信仰の思いをこめて礼拝すること。仏像を彫刻する態度の敬虔なさまをいう
- ◦次り ヤドリ。スガリ。とおりすがり
- ◦戦捷 センショウ。戦争に勝つこと
- ◦感応 カンノウ・カンオウ。仏が人に応じたはたらきかけ(応)と、人がそれを感じとる心のはたらき(感)
- ◦回禄 カイロク。火の神の名。(火の神のしわざというところから)火災にあうこと
- ◦烏有 ウユウ。何もないこと(「烏(いずくんぞ)有らんや」の意)
- ◦立ろに タチドコロニ
- ◦塏 カイ。高く乾いた土地
- ◦勒 ロク。ほる。きざむ
- ◦梗概 コウガイ。あらまし
語意
[註]
- [1]高野山座主大僧正宥範は、高野山金剛峯寺第384世。1905年(明治38)6月〜1920年(大正9)6月在任(「歴代座主一覧」高野山真言宗総本山金剛峰寺 website 2023年3月22日閲覧)
- [2]滝王山不動院南光寺は寛文3年(1663)調査の水戸藩「開基帳」に記載がない(『新修日立市史 上巻』p.516)。開基等不詳。碑にある伝承によれば、弘法大師(真言宗の開祖である空海)の開基で、本尊は紀州高野山内の波限不動尊像とともに同作であるという。したがってこの碑の題額が高野山座主大僧正宥範の書であることはうなづける。
なお、寺号の南光寺は波切不動明王像のある高野山南院に由来するか。 - [3]宮田篤徳については次項参照。
撰文は神職
宮田篤徳は安政2年(1855)6月、神職宮田篤親の子として河原子村に生まれる。通称破魔太郎、篤徳は実名。父について「支那学」を修め、のち国学者平田胤雄の門に入る。1874年(明治7)茨城県拡充師範学校(のち茨城県師範学校)に入り小学師範学科を卒業し、河原子小学校の教師となる。77年油繩子小学校へ転勤、82年依願退職。翌年、神職養成機関である皇典講究所の講修生となる。翌85年多賀郡神道集議所副長、1901年(明治34)神宮奉斎会茨城支部諮問員となり、大講義に補せられる。02年4月小学校訓導、08年に退職。以後、神宮奉斎会(戦後は神社本庁)に属した[4]。
- [4]『茨城人名辞書』1915年刊
遭難と碑文
宮田篤徳の文には不動尊堂の焼失、再建、風損、再建の記述はある。だが碑文がなる直前の1910年(明治43)3月12日、暴風雪で千葉県と茨城県沖合において大遭難事故があった。県内の死者・行方不明者は500人を超え、河原子においても16人の死者をだした[5]。それだけではない。不動尊堂の修復を住民が企図した前の年1909年(明治42)3月磯浜沖で河原子漁船の遭難があり、15人が亡くなっている。さらにその2年前5月には、福島県豊間沖で4人が遭難している[6]。
碑には遭難への言及がない。相次ぐ遭難を前にしたからこそ波限不動尊堂の再建・整備ではなかったろうか。神道は死者への慰霊のことばはもたないというのか、どのような理由・事情があるのだろうか。
- [5]杉山節・ニ平章「茨城の漁業発達史 第2報」『茨城県水産試験場研究報告』第38号(2000年) ひたちなか市史編さん委員会『那珂湊市史 近代・現代』(2004年)
- [6]「史料 河原子の漁業 日立の水産歴史編2」。こちら PDF
河原子の寺
江戸時代初期、河原子村には、真言宗の普済寺、その門徒寺の宝蔵院・文秀院、真言宗日輪寺、その門徒寺の龍蔵院・観行院、山伏の海蔵・光明院・大蔵、行人の東覚院の計九つの寺院があった。これらが徳川光圀の仏教弾圧により、普済寺は油繩子村へ、日輪寺は森山村へ移された。その他の寺院・山伏は破却あるいは還俗させられた。そして河原子には油繩子村から真言宗法鷲院末の東福寺が移転させられた。
ところが幕末、徳川斉昭の主導によって水戸藩は、東福寺は長年無住であり、かつ殿堂(中枢となる建物・施設。殿宇。堂宇。仏をまつる建物)が大破しているとして村から願いをださせて廃寺に追い込んだ(あたかも村が自主的に廃寺を望んだという形をとった)。
1873年(明治6)私立の小学校として河海舎が設立され、それを母体に翌年8月、公立小学校として河原子小学校が開校する[7]。教場は廃寺となっていた東福寺である。この点からも殿堂が大破しているから廃寺にしたという水戸藩の記録は極めて疑問が多い、つまり虚偽であると言えようか。このとき河原子小学校の教員となったのが宮田篤徳である[4]。河原子小学校は1909年(明治42)に現在地に新築・移転する。それまでの40年近くものあいだ「殿堂大破」の東福寺が学校として使われてきたのである。
空き家となった東福寺の建物は、1921年(大正10)4月に焼失、翌22年5月住職が配属され、再興への歩みが始まる。そして三年後の1925年10月に本堂と庫裏の新築がなった[8]。
つまり、波限不動尊碑が建立された時にまだ河原子に寺はあっても僧侶は常住していなかった。それゆえ波限不動尊の再建やその建碑に東福寺は関われなかったということであろう。それゆえ遭難者への慰霊のことばが碑文に刻まれることもなかった。
近代に限ってみれば、久慈浜には多くの遭難者への慰霊碑がある。久慈町には天台宗の千福寺があって水戸藩の弾圧をしのぎ、村人の信仰を集め、寺院側でもこれに応える。一方河原子には多くの遭難者をだしているものの慰霊碑は見つけることができなかったのは、近世以来水戸藩の宗教弾圧が河原子の碑に陰を落していると言えよう。
- [7]『新修日立市史』下巻(2000年)p.94
- [8]「東福寺再興記念」碑(1927年11月建立 東福寺参道)
碑文原文
本堂古来號瀧王山不動院南光寺。其創立今雖不詳、據古老傳/説、弘法大師之開基而、本尊者稱波限不動、與紀州高野内之波/限不動尊像倶、一刀三礼之同作也矣。徃昔、源義家、赴軍于奥州/也、次于此地、祈戦捷於本堂焉爾来信仰稍加、感應亦顕著云。明/治十九年、罹回禄之災、堂宇及什物悉付烏有。獨本尊霊像幸免/其難。三十三年、里民協力新建堂宇、稍復舊観。而三十五年又為/暴風所破壊。四十二年、發起人等與本町諸有志謀、各醵義金。立/得巨額。於是修繕堂宇、葺以銅板。且擴寺域、築石垣、植花樹、頗加/荘嚴矣。抑本堂臨海臨據丘、地勢高塏、風景絶佳、故居河原子八勝/之一。即不動秋月是也。発起等之欲勒之碑石、以傳永久、乞題額于/高野山法師大僧正、文于余。余乃敍其梗概、以示後人爾云。
- ひたち碑の会調査記録による
- 句読点は調査者。/は改行位置