宮田村の鯨一件
江戸時代、鯨漁は限られた地域、紀州熊野、肥前五島・唐津・大村・松浦、筑前の福岡、房州勝浦で行われていた。その他の地域では、まれに沖に漂う鯨や浜にうち寄せられた鯨をとらえた。捕獲された鯨はイワシやカツオなどの魚とは異った取扱いを受ける。ここでは日立市域を中心に茨城県域での鯨捕獲に関する史料によって江戸時代の鯨の取扱いについて紹介する。なお本稿は、高木昭作「「将軍の海」という論理—鯨運上を手がかりとして—」(『水産の社会史』)を参考にしている。
以下に用いた史料はこちら 史料 宮田村浜へ寄鯨一件 に全文を収めた。
目次
- 宮田村に「もろとも」
- 鯨の肉を入札にかける
- 鯨の税金
- 水戸領宮田村の場合
- 水戸領湊・平磯村の場合
- 水戸松岡領の場合
- 幕府領鹿島郡子生郷の場合
- 相給の村、鹿島郡荒野村の場合
- 相給の村、鹿島郡下津村の場合
宮田村に「もろとも」
江戸時代、天保10年(1839)9月9日の朝、多賀郡宮田村の字山崎の浜辺に「もろとも」という大きな魚が多数打寄せているのを塩焼きをしていた者が見つけた。数えてみると17本、大きさは9尺(2.7メートル)から4間(7.2メートル)、珍しいことだったので、人々があつまり、隣の村から船でやってきて切取る者さえいた。報告をうけた宮田の村役人は浜に出向き、触れないようにと指示し番人をつけた。そして水戸藩の郡奉行所へ処置方法について伺いをたてた〈史料1〉。
村役人の混乱ぶりは、伺書の下書きであり控でもあるこの文書を見ると一目である。数多くの訂正(言換え、削除、挿入)が見られる。とりわけ「隣浜々より数船相集り切取候趣、所之者より申出有之候ニ付」の一文が消されている。集まってきた者たちが勝手に切取り始めたという一文はさすがにまずいと考えたのであろう。カツオなどの魚とは異るという認識はあったのである。かつ差出人は組頭2名。庄屋は他出していたのであろうか、名はない。庄屋に相談する余裕もなく、文書をつくり、届けたのである。
「もろとも」というのは鯨のことである。文書では「もろとも」を「大魚」と訂正し、さらに「大魚」を「鯨の類いもろともとて申し候魚」と説明していることからわかる。「もろとも」は茨城県における鯨の地方名である[1]。
当時においてもこの地域ではそれほどに鯨を見ることは珍しかったのである。
鯨の肉を入札にかける
この藩への届けにどのような指示があったのかは、文書が残っていないのでわからない。口頭での指示のみだったかも知れない。
だが、年号や差出人、宛先が欠けているものの、藩の指示を受けて対処したと考えられる9月中の文書が残っている〈史料2〉。それによれば、鯨を白身・赤身・尾の部位ごとに切り分けて入札にかけ、その落札金(御払金)は10両1分余。1/3にあたる3両1分余は「公納」、2/3の6両3分余は村へ下ろされた。
鯨の税金
鯨の捕獲に対してかけられる税金は、鯨分一とよばれる。以下、『国史大辞典』の説明をひく。
鯨を捕獲した場合に近隣の村々で入札し、落札した金額に対して何分の一かを徴収した。この場合は鯨を捕獲した時の難易度により徴収高が変わる。江戸時代には、鯨を捕獲したときには領主への届出が義務付けられ、突鯨=銛による突留めは入札値段の二十分の一、寄鯨=銛で傷ついた鯨や死鯨の漂着は入札値段の三分の二、をはじめ、その他捕獲による分一が課された。
この説明は地方書である高崎藩大石久敬「地方凡例録」(寛政5年跋)に拠っているものと思われるので、「その他捕獲」を含めて「地方凡例録」[2]から幕府の規定を紹介する。
突鯨:船中から銛で突いて獲ったもの。入札にかけ、落札額の二十分の一を上納する。
寄鯨:銛を受けて傷つき、あるいは死んでしまった鯨が漂流し、海岸に流れ着いた鯨を浜に引揚げたもの。入札にかけ、三分の二を上納する。
流鯨:沖合に漂流する鯨を船をだし繋ぎとめて浜へ引揚げたもの。入札にかけ、十分の一を上納する。残りは漁師たちの取り分となる。
切鯨:沖合に漂流する鯨を船をだして浜へ引揚げられずに、海上で切取ったもの。入札にかけ、落札額の二十分の一を上納する。
捕獲の難易度により、税額が設定される。幕府領、藩領、旗本領、それら相給の村での分配について、「定法」が定まるのは、享保9年(1724)のことだと「地方凡例録」は言う。
水戸領宮田村の場合
天保9年の宮田村の事例は「寄鯨」と考えられるが、落札額の配分は幕府の規定(領主2/3、村1/3)とは逆である。どのような事情があるのだろうか。
宮田村にはもう一件、寄鯨の史料がある〈史料3〉。後半部が欠けており、時期は不明。これによれば宮田村の浜に「切流シ鯨流寄」ってきた。藩の指示は村において重量を調べ、入札によって売るようにとのことだった。宮田村は指示にしたがい、重さを調べ、白身60貫、脇ひれ1枚、赤身98貫をそれぞれ入札にかけたところ、川尻村と宮田村の者が落札した。その結果は、合計金4両余。そして内1両2分余を上納、3両1分余が宮田村へ下げ渡されることになった。配分割合は藩に1/3、村に2/3。これは天保9年時と変わりない。
水戸領湊・平磯村の場合
元禄元年(1688)2月、那珂郡湊村と平磯村(いずれも、ひたちなか市)の船が共同して鯨1頭を捕獲した。このとき鯨は金34両2分にて売られ、半分は藩へ、半分は捕獲した漁師たちに与えられた〈史料4〉。幕府の規定とは異る。
その後、正徳5年(1715)4月、水戸藩が「鯨切取候御法」と題して、那珂郡湊村と平磯村に次のように示した〈史料5〉。
鯨切取候御法
一 沖ニテ切候鯨ハ半分公納、半分ハ所之モノニ被下
一 岸ヘ寄鯨ハ三ヶ壱公納、三ヶ弐所之モノヘ被下
一 沖ヨリ岸ヘ引付候鯨ハ四ヶ一公納、四ヶ三所之モノヘ被下
右ハ寄鯨有之候節公納又ハ所ノモノヘ被下候ワケ、向後前書之通ニ相済候間、左様ニ相心得可被申候、尤猟師共ヘモ可申聞候、以上
正徳五年未四月廿五日
青木二郎衛門
吉田仁左衛門
湊村・平磯村庄屋衆
つまり以下のようになろうか。
(ア)沖合つまり海上で鯨をとらえ、切り取った場合の税率は 1/2
(イ)浜辺に打ち上った鯨から切り取った場合の税率は 1/3
(ウ)沖合の鯨を浜辺に引寄せて切り取った場合の税率は 1/4
鯨の売却までに要した労力の多寡によって配分割合を変えたということであろうか。なおこの両村への指示は、水戸領内全体に適用されたものと考えられる。
これも幕府とは異った規定がなされている。御三家である水戸藩は幕府の規定に必ずしも縛られる必要はない、ということか。また突鯨の規定がないが、そもそも水戸領内では突鯨漁は行われていないので規定する必要はないということであろう。
浜々寄物定法
──「この両村への指示は、水戸領内全体に適用されたものと考えられる。」と上に書いたが、坂場流謙著「国用秘録」[5]巻之三の「濱々寄物定法」に以下のような記事があったので、紹介する。
材木の類
一 岸江流寄候品 三ヶ弐公納/三ヶ壱村へ被下
一 沖ニ而見附引寄候ハヽ 半分上納/半分村へ被下
但半年見合可申事
一 鯨沖ニ而切取り来り候分 半分上納/半分村へ被下
一 岸江寄候鯨は 三ヶ壱可納/三ヶ弐村ヘ被下
一 沖ニ而見附引寄候鯨は 四ヶ一上納/四ヶ三村へ被下
右正徳五年未四月廿四日極
右品改として手代壱人指出、品改貫目、鯨の赤身白身別々にわけ、桶へ入、手代封印ニ而三四里四方入札申触、開札之上ニて手形を極、払代金拾両以上は八月三月抔ニ納、月を延候而取上候事
鯨の公納割合は、先の湊・平磯村庄屋宛達と同一である。
そして処置方法を規定する。鯨を引寄せたり引揚げたときに役人一人を派遣すること、品改めをなし、赤身・白身に分け、桶に入れて封印し、三里四里周囲の商人によびかけて入札を行ない、代金が10両以上なら8月か3月に上納させる。
この「濱々寄物定法」が定められたのは、湊・平磯村宛達の前日のことであった。
[2024–01–19]
水戸松岡領の場合
松岡領
常陸国多賀郡の北部の地、安良川村(高萩市)から大津村(北茨城市)までの数十ヶ村は、水戸藩の附家老中山氏の知行地で、松岡領[3]と呼び習わされてきた。
正保3年(1646)に下手綱村を中心に多賀郡北部の村々は中山氏の知行地(松岡領)となり、その後宝永4年(1707)12月中山氏は太田へ知行割替えとなるが、享和3年(1803)太田から再び松岡へ知行替えとなり、「高萩地方以北二九か村七新田を支配し、半ば独立の藩のような政治を行な」った。そして慶応4年(1868)正月24日中山氏は維新政府から大名に取り立てられ、松岡藩が成立した(『高萩市史 上巻』)。
中山氏の家政及び領内の民政・市報・財政・渉外・軍事・流通・宗教・学事は、一部を除いて中山氏が権限を水戸藩から委譲されており、なかば独立的存在といえるという(『高萩市史 上巻』p.479)。
鯨の取扱方法
中山氏領において文化14年から明治2年のあいだに9例の鯨類の捕獲記録が残されている〈史料9〜13〉。
(1)文化14年(1817)2月、多賀郡小野矢指村(北茨城市)にイルカ(海豚)が流れ寄ってきたので、切身にして入札にかけた。1/3は領主中山氏に上納され、2/3は村へ配分された。…(イ)
(2)文政2年(1819)3月、高萩村(高萩市)の渚に鯨が流れ着いた。骨ばかりでわずかについていた肉さえも腐っており、油さえとれないありさまであったので、出張した役人は引揚げてそのままにしておくよう村人に指示した。同じ日、高萩村の北方5キロメートほどにある下桜井村(北茨城市)では鯨の頭と骨が渚に流れ寄ってきたものの高浪のため引揚げられず、縄を切って沖へ流され、姿は見えなくなった。役人は再び打寄せてきたら報告するよう村人に指示した。その後の記録がないので、再び寄ってくることはなかったのであろう。
(3)文政6年(1823)5月、足洗村(北茨城市)にイルカ(海豚)が流れ寄ってきた【右図】。肉は腐っていたが、油が少量取れた。足洗村の者が落札し、代金の1/3は中山氏へ納められ、2/3は村へ。…(イ)
(4)文政7年(1824)正月、高戸村(高萩市)の1里沖合に鯨らしきものが見えたので舟4艘をだして浜に引揚げた。中山氏の役人が出向いて検分し、入札を指示したところあまりにも安値であったので、せり(口増言)にかけて売却した。肉・頭・鰭・尾の4部位計金23両余。1/4が上納され、3/4は村へ。…(ウ)
(5)文政7年(1824)5月30日、高戸村の渚に名前のしれない大魚が流れ着いた【右図】。長さ8間。役人が出向き切らせたところ油はとれず、用立たずであった。それは死んだまま長く海中に漂い腐っていたからではないかと推測された。
この二日前の5月28日、大津浜にイギリスの捕鯨船員12人が上陸している。船員は中山氏の家臣たちによって捉えられ、一軒の民家に閉じこめられる。水戸領内は騒然とした。6月10日幕府の代官古山善吉が通詞2名と共にやってきて取り調べると、水や食料を求めての上陸であったことが判明する。事情がわかり、翌11日船員らはリンゴ・枇杷・大根・薩摩芋・鶏・酒などを与えられ退去した[4]。高戸村の渚に流れ着いた大魚はこのイギリス捕鯨船の漁と関係があるのではないか。
(6)文政7年7月、沖合(場所不明だが高戸浜であろうか)で腐っていた鯨からわずかだが肉を切取ると重量は125貫500目であった。その代金は2分余。1/2は中山氏へ、1/2は村へ。…(ア)
(7)文政8年(1825)正月、中山氏領で鯨を捕獲し、切身53貫の代金は3分余、1/2は中山氏分、1/2は村へ配分された。…(ア)に相当するので、海上でとらえその場で切り取ったのであろうか。
(8)文久3年(1863)3月、高戸村に鯨が打寄せた。切りとった上で上中下の3種に分け入札にかけたところ、計金2分686文となった。その代金は中山氏へ1/3を上納され、村へは2/3が配分された。…(イ)に該当
(9)明治2年(1871)2月26日、大津村(北茨城市)沖に鯨が現われ、船を出して切り取って戻った。白身と赤身に分け、入札にかけられた。その代金1両2分633文、中山氏と村に半分ずつ分けられた。…(ア)に該当
こうした中山氏領及び宮田村の事例をみると、イルカを含めて先の正徳5年の水戸藩が湊・平磯村に示した規定が適用されていることがわかる。
鯨油のこと
上記(2)(3)(5)においてあえて油は採れなかったとの記述がある。村人が鯨油を利用していたことはたしかだが(一般に鯨油は灯火用と害虫駆除用に用いられていた)、油を採取した場合にも入札にかけられ、税をとるのだろうか。幕府も水戸藩の規定にも油についての規定はないので、鯨肉についてのみ課税するということであろう。鯨油がどれほど採れたか、計測は困難だったのであろう。
幕府領鹿島郡子生郷の場合
常陸国鹿島郡の鹿島灘に面した子生郷3ヶ村(子生村・荒地村・上釜村–鉾田市)では、慶安5年(1652)には「寄魚(鯨)」の代金1/3は村に下げ渡された。幕府の規定通りである。しかし、公納分2/3も村に下げ渡して欲しいと訴え出た。その理由は、(1)子生郷の者全員が寄魚の場に詰めて魚の番をしたこと、(2)波が荒かったので流されないよう綱を300筋も用意し、魚の口に結わえつけたこと、(3)塩釜が寄魚の油によって被害があったこと、の3点をあげる。そして「百姓草臥めいわく」したので、代金の全額を下げ渡してほしいという〈史料6〉。
「くたびれ、迷惑」を理由に公納分さえも求めるのである。公納分要求の根拠となるのは自らの主張の「正当性」である。結果については不明であるが、こうした主張をなしえたことは特筆できる。
なお子生郷は子生村・荒地村・上釜村からなり、いずれも当時幕府領であった。
相給の村、鹿島郡荒野村の場合
天和2年(1682)荒野村の沖合で漁をしていた者た22艘で鯨一頭をみつけ、浜に引揚げた。鯨はいたんでおり、あばら骨、頭部、尾びれがなかった。入札が行われ、磯浜(大洗町)の理左衛門がで落札した。この史料は、落札の結果と税額を領主へ届けたもの。落札額は金2両3分余、その半分1両余づつが旗本二氏と村に配分される〈史料7〉。天和2年当時は荒野村(鹿嶋市)は旗本二氏の支配地で、のち元禄15年(1702)に守山藩領となる。地引網漁が盛んな村である。
相給の村、鹿島郡下津村の場合
延享2年(1745)正月24日、鹿島郡下津村(鹿嶋市)の沖合に流鯨があり、浜に引揚げたところ、長さ9尋余り、シャチに食われた跡や切り跡も見られ、数日間漂流していたようだった。入札にかけらることになったが、「全体鯨古く、其上春気の儀時節悪く候間、此上四五日も御払遅く成候へば、皮肉油減じ肉腐れ、用立兼」ね、入札もできなくなるのではと心配されたので「直払」によって入札された。そして金33両で地元下津村民が落札した。
下津村は幕府代官領と旗本領からなる相給の村で、その33両の配分は幕府と旗本に十分一運上として3両1分余、村に残り29両2分余つまり、9割という配分であった。幕府と旗本へはそれぞれの高に応じて配分された〈史料8〉。
この配分割合は「地方凡例録」が言う流鯨の規定通りである。
[註]
- [1]茨城教育協会編『茨城方言集覧』(1904年刊の復刻)に「巨頭ナル鯨ナリ」とある。赤城毅彦『茨城方言民俗語辞典』(東京堂出版)には、鹿島郡で使用されるとある。
- [2]大石慎三郎校訂『地方凡例録』(近藤出版社)
- [3]「松岡領」とは、慶長7年(1602)佐竹氏の秋田移封、岩城氏の改易により、出羽角館の城主戸沢政盛が常陸国多賀・茨城両郡の内四万石に封ぜられ、下手綱村の竜子山城を修築、松岡城と改称したことから、この地を松岡と呼称することになった。
- [4]「文政七甲申夏異国伝馬船大津浜へ上陸并諸器図」(茨城県立図書館蔵)『通航一覧』
- [5]茨城県史編さん委員会編『近世史料Ⅱ 国用秘録下』(1971年)
- 〈史料1〉宮田根本家982 日立市郷土博物館蔵
- 〈史料2〉宮田根本家983 日立市郷土博物館蔵
- 〈史料3〉宮田根本家984 日立市郷土博物館蔵
- 〈史料4〉『茨城県水産誌 第一編』43頁
- 〈史料5〉『茨城県水産誌 第一編』49頁
- 〈史料6〉『旭村の歴史 史料編』627頁
- 〈史料7〉『茨城県水産誌 第一編』29頁
- 〈史料8〉「地方凡例録」巻之五下(大石慎三郎校訂『地方凡例録 上巻』326頁)
- 〈史料9〉(御用留類聚) 松岡中山家中高橋家写真版242 茨城県立歴史館蔵
- 〈史料10〉(御用留類聚) 松岡中山家中高橋家写真版242 茨城県立歴史館蔵
- 〈史料11〉「御用留類聚」 松岡中山家中高橋家244−2 茨城県立歴史館蔵
- 〈史料12〉「御用留類聚」 松岡中山家中高橋家246 茨城県立歴史館蔵
- 〈史料13-1〉「巳御用留」 松岡中山家中高橋家252 茨城県立歴史館蔵
- 〈史料13-2〉「未御用留」 松岡中山家中高橋家247 茨城県立歴史館蔵