鮎川浜の電気製塩

本上孝夫

日立市役所に千葉県銚子市の篠塚直行さんから一枚の版 画が送られてきた。昭和21年(1946)、多賀工業専門学校(現茨城大学工学部)の学生たちが鮎川浜で行った塩作りを描いたもので、当時の指導教官本上さんが日立に元気でおられたので、きっそく話をうかがった。

ほんじょう・たかお、です。昭和18年(1943) 3月に多賀高等工業学校(後に多賀高等工業専門学校と改称)の助教授として赴任しました。各科の学生に化学と化学実験を教えていました。戦時中で教職員、学生はゲートルをつけていました。校内の清掃作業と軍事教練は毎日行われていました。

昭和19年5月に私は充員召集されて、軍務に服しました。戦後復員して、 20年10月に学校にもどりました。当時学校では、校長の「学校は研究の場」とする方針の下に、教官、学生の研究活動が行われていたんです。学生の研究活動として理学研究部が設けられて、各研究班は指導教官の下に活動していました。とくに化学班の活躍は目覚ましくて、 20年9月に化学研究部として独立しました。その一班であった製塩班は、不足していた食塩を得るために海水から食塩を製造しようと炭素電極を用いて電気製塩の実験、研究に励んでいたんです。

そのときちょうど復員して帰校した私に、製塩班の指導教官として学生の研究活動を援助するように指示がありました。翌21年1月、実験室の裏の広場に20石水槽を備えて、 100ボルト3相交流電極式開放型で生産実験を行いました。さらに量産するために、1月末になって鮎川浜に電気製塩所を設けました。当時鮎川河口の南側に空き家になっていた旅館がありまして、建物も利用させてもらいましたが、敷地に設備が完成して生産が始まったのは3月末でした。学生は15、6人で、電気の管理もあり、交代で24時間つきました。最初に出来たのは、黒くて、にがり強くて寮に持っていけないね、と再精製させました。

学生の研究熱はさらに設備の改良に進んで、用水ポンプ、海水貯水槽、濃縮槽、結晶槽、遠心分離機などを備えて、いち偉観を呈するようになりました。当時、学生だった篠塚直行さんの版画はこれを描いたものです。

生産した食塩は主として全寮制の学生寄宿寮に配給しました。多い時は月産400トンに達したと思います。その後、電力事情の悪化などで生産は断続的になって、昭和22年の10月に製塩所を廃止することになりました。

専売局、東京電力、地主さんとの交渉に大変苦労したことを思い出します。

もう、 50年も前のことですね。

[鮎川浜電気製塩之図 略]

聞き取り・まとめ 清宮烋子
日立市郷土博物館『市民と博物館』第44号(1997年)