「鳴呼勤労学徒殉難碑」建立の思い出

川尻町 矢吹 定男

第二次世界大戦の末期に茨城師範の学生、本科2年40名、予科2年80名、計120名が、電線工場に動員されていた。私は当時15歳で予科生の中に名を連ねていた。

宿舎は当時の日立青年学校の寮だった。現在の日立工業高校の西側、道をはさんで雛段になっているところである。

昭和20年7月17日の夜半、米艦隊の艦砲がこの寮を襲った。その一発が寮から山へ逃れようとする私達の真ん中に落ち、炸裂の閃光とともに無残にも教官1名、学生11名、計12名の命を奪ってしまったのである。 戦後の混乱の中に2年有余の歳月が流れ、私達も間もなく最終学年に進もうとする頃、亡き師や友のために慰霊碑を建てようという動きが仲間うちから出てきた。しかし世慣れていない学生の集団では、初めのうち何をどうしていいのか見当さえつかなかった。

先輩に意見を求めたり、石屋に当たったりした結果、資金は5,000円程度必要なことが分かった。ハガキ15銭、封書が30銭の時代に、5,000円というのは大金だった。完成の期日は被災3周年にあたる昭和23年7月17日とし、募金と並行して関係者との交渉を始めた。

日立工場の総務部へ、敷地を借りるために何回か足を運んだ。当時、師範学校は戦災で焼けて土浦市の郊外にあったから、そこから片道2時間半もかけて日立まで来るのは、学生達にとって容易ではなかった。

アメリカ進駐軍の許可も必要なことが分かった。当時は民間人の慰霊でも、戦争に関するものは許可が必要だったのである。

許可は心配したよりも早く出た。敷地も何回か交渉の末、爆心に近い40平米を99年間無償で借りることができた。だが肝心の資金の方は、いくら頑張っても2,000円しか集まらなかった。予定の半分以下では、原材料の寄付に頼るか自分達の労力で補うしかない。

水戸藩時代から続く剣道場、東武館の当主小澤武氏が、私達の苦衷を察し、自分の山にあった黒光りする石材を寄付してくれた。

 頌文は、犠牲になった予科生、岩松千秋君の祖父、漢文学者の岩松安太郎先生に依頼し、できた漢詩を関南沖先生が、石材の大きさに合わせて能筆を振るわれた。

だが私達の予算で引き受けてくれる石屋は、どこを探してもいなかった。その倍は欲しいという。見通しのないまま月日が過ぎ、事業が頓挫するかと思われた時、やっと小澤氏が水戸市谷中の石屋、金原彦六氏を見つけてくれた。金原氏は、金は集まっただけで結構です、と言って学生達を小踊りさせた。

台座は石屋に教わって、側面を玉石で石垣風に飾ることにした。県土木課の許可をとり、学生10人が学校のトラックで鮎川まで来て、規格を決めて黒石200個ほどを冷たい川底から裸足で探した。

台座の造成に使うセメントがどの店にもなくて、日立セメントに直接売ってくれるよう頼みに行った。社長の大内竹之助氏が、私達の話を聞いて意気に感じ、袋に詰める前の粉セメントを10袋分ほど無料で提供してくれた。機械から出てきたばかりの熱いセメントは、借りた荷車で運ぶ途中で風に舞った。

期日ぎりぎりになって碑は完成し、当日に慰霊祭を行った。招待した遺族の方々は碑に彫られた我が子の名を見て涙されていた。

私達は当時18歳だった。今振り返れば、師友を悼む心に加えて若者の向こう見ずな情熱が、碑を完成させたとしか思いようがない。

[写真]茨城師範学校犠牲者の慰霊碑 略

日立市郷土博物館『市民と博物館』第37号(1995年)


所在地:日立市助川町5丁目16。6号国道日立市城南町小平会館入口の交叉点から西に助川城址通りを五百メートルほど進み、グランド脇の交叉点を西に折れて数十メートル入った右手にある。