金沢村長清寺のその後
水戸藩主徳川斉昭による寺院潰しの一例

日立市金沢町にかつて長清寺という曹洞宗の寺があった。幕末に水戸藩によって廃寺させられ、近代に入って長清寺の再興はゆるされず、かわりに神奈川県にあった長福寺が移転してくることで「再興」がかなった。この廃寺から再興までの過程をたどる。

目次 ── 江戸初期の長清寺|光圀の弾圧|斉昭の弾圧|長清寺から長福寺へ


江戸初期の長清寺

この長清寺の江戸初期、寛文3年(1663)書き上げの水戸藩「開基帳」によれば次のとおり。

   金沢村
 彦坂小刑部御繩之時見捨     禅宗友部村東泉寺末寺
一 寺内  五斗       金王山   長清寺
                       長老
 右同断
一 寺領 壱石六斗九升七合
一 此寺天文二年丑年文佐和尚ト申先師開山、当卯迄百三十壱年
一 百姓旦那三百七拾一人
一 従跡々御目見不仕候

山号は金王山、寺号が長清寺。禅宗で、友部村(日立市)の東泉寺末寺。幕府代官彦坂小刑部の検地のおり寺内と寺領は年貢対象高から除外されている。住職は長老、僧侶となって20年以上がたつ。天文2年(1533)に文佐和尚が開山。百姓の旦那が371人、これまで藩主への謁見はなかった。

光圀の弾圧

この寛文年間に金沢村には長清寺をふくめて七ヶ寺があった。次のとおりである(『新修日立市史上巻』515頁)

名称 宗派 本末 寺歴 光圀の処分
淡主山 宝善院 滝泉寺 真言宗 河原子村
普済寺門徒
天文9年(1540)
宥円開山
破却
金乗院 真言宗 河原子村
普済寺門徒
永禄4年(1561)
宥俊開山
死亡
五光山 来向院 西光寺 真言宗 河原子村
普済寺門徒
天文3年(1534)
宥禅開山
追放・闕所
行善院 真言宗 河原子村
普済寺門徒
天正3年(1575)
宥印開山
元禄2年(1689)2月
芦倉村南辺寺へ他山
中丸山 東照院 如意輪寺 真言宗 河原子村
普済寺門徒
大永5年(1525)
宥光開山
破却
金瀧山 覚念寺 一向宗
東門跡直末
文明2年(1470)
覚宗法源開山
金王山 長清寺 曹洞宗 友部村
東泉寺末
天文2年(1533)
文佐開山

そして元禄期に藩主徳川光圀の策により真言宗で普済寺門徒寺のすべて五ヶ寺が破却・追放などの処分がなされ、一向宗の覚念寺と曹洞宗の長清寺が残った。

斉昭の弾圧 長清寺と覚念寺

光圀の弾圧から百四十年後の天保末年、水戸藩領では再び仏教弾圧の嵐が吹き荒れた。藩主徳川斉昭によるものである。

このとき長福寺は藩から「殿堂修復不行届」という言いがかりのような理由を付され、「村方願之上畳寺」となった。つまり藩は村から願いをだせることで、畳寺つまり伽藍を破棄し、仏像・仏具・什物も破棄させることを合理化した。幕府から咎められても村から畳寺の願いが出されたのだからという言い訳ができる。

このとき破却を免れた覚念寺は、親鸞の門弟二十四輩の一人唯信が開基し、かつ京東本願寺の直末寺である。この有力寺院を潰すならば、東本願寺と衝突し、その反撃をうけることは必至である。それを避けた、あるいは逃げたのである。きわめて政治的な処置である。

蛇足。殿堂とは本尊や祖師像を安置した建物、または仏殿・法堂などの建物のこと。この項は早稲田大学図書館蔵「筑波根於呂志」によった。なお、東京大学史料編纂所が所蔵する「筑波根於呂志」では、「厨堂」となっている。読み間違いではない。「厨堂」とはどのような建物かわからない(厨とは台所のことである。台所の修復不行届が畳寺の理由になるとは思えない)。「筑波根於呂志」を利用するならば、早稲田本をお薦めする。

長清寺から長福寺へ

こうして空家同然となった長清寺には、さらに幕末の元治元年(1864)尊王攘夷を叫ぶ天狗党の焼打が襲う。

ところが、本尊や須弥壇は檀徒によってひそかに山中に守られていた。村人もしたたかである。その数年後長清寺跡に古屋を建て、本尊を移した。さらに人々は浄財を集め、大正7年(1916)になって本堂の建設に着工、翌年入仏式が行われた。しかし再興の認可はおりなかった。そして昭和8年(1933)、神奈川県愛川村にある長福寺の移転を知り、神奈川県と交渉の結果、昭和9年12月移転の許可がおり、長清寺は長福寺として再出発することになった。

畳寺という斉昭の弾圧から90年を経て村人は信仰のよりどころを再び得ることができた。

以上の経過については、長福寺護持会会報『ごじかい』第5号(1984年7月1日発行)に掲載された「長福寺の開創 旧長清寺から現在まで」によった。この全文を以下に紹介する([ ]は、編者による)。廃寺となった寺の再興がいかに困難なことだったか、この長清寺、長福寺の事例からうかがうことができる。

長福寺の開創 旧長清寺から現在まで

 当山はもと長清寺といい、開山は多賀郡友部の東泉寺三世東庵久佐(天文二二年寂)、開基は金沢長介(永禄一一年寂戒名樹西院金光居士)であるから、両者の死亡年代からみて室町時代後期の開創であるが、一説には天文二年(一五三三)丑年の開創で寺領は一石六斗九升七合であったという。

[写真 略 キャプション:昭和26年当時の長福寺 まだ火葬場も葬祭場もない]

 元治元年(一八六四)天狗諸生の乱のとき、天狗派に焼討され開創以来三百十余年にして廃寺になった。この火難のとき、檀徒は本尊と須弥壇(しゅみだん)を山中に避難し、乱が平定して幾年かの後照山又四郎所有の旧長清寺跡に間口五間半奥行二間半の古家屋を建てて安置し、先祖供養や正五九の三ケ月には修理念仏を修していた。

 修理念仏というのは、寛永十八年(一六四一)七月二十六日強訴の罪によって、弟二男の二人と共に塙山で処刑された金沢の庄屋、照山修理のための追善供養である。

処刑されて百三十余年後、安永五年(一七七六)四月二十四日には客殿を建てて盛大に行われたことが、境内に現存の念仏供養塔や蹲(つくばい)によって知ることができる。

[写真 略 キャプション:安永五年客殿建設のとき建立された供養塔]

 明治四十五年宮田大雄院住職原暁堂が当地の法事に出張してから旧長清寺再興の念願は年と共に高まり、照山松之介を筆頭として檀徒七十八名が浄財を喜捨し、大窪義一、石川幸右衛門等の他檀徒五十七名の協力も得て、大正七年(一九一八)五月本堂の建立に着工し翌大正八年四月三十日入仏式が行われた。

 それが現在の本堂であるが、古家屋は庫裡に使用し大雄院五十二世原仙宗が閑居し、次で大雄院随徒岸道順、梶原祖禅、羽賀全法が住した。

 当時は新寺建立が困難の時代で堂宇が完備されても正式の認可を得ることはできず、菩提寺再興の念願も空しく十有余年を経過した。

寺号の移転認可さる

 昭和八年十月十二日大本山総持寺大僧堂の開単式に上山の大雄院原住職が、神奈川県愛甲郡愛川村長福寺の移転間題を知り、住職原秀光、総代照山松之介、鴨志田力蔵、林鉄太郎、佐藤酉太郎の連署をもって移転申請を神奈川県庁に出願したが、その長福寺の跡地は小学校に変り既に廃寺であるとして却下となった。偶、神奈川県庁勤務の金沢町出身鈴木正一の仲介を得て大雄院住職が再三当局と交渉の結果、昭和九年十二月六日付をもって神奈川県長福寺の移転が許可され、曽ての旧長清寺は廃寺後七十年にして新たに長福寺の名をもって再興されることになった。

 この再興の喜びは庫裡の新築をみることとなった。時の国分村長大窪定吉外の他檀徒も寄進に協力し、昭和十二年三月十五日落慶を迎えた。それが現在の庫裡である。

 昭和二十五年現薫原宜弘が上住するや多賀町(町長大窪定一)から、町の懸案であった火葬場建設用として敷地の提供を要請され、総代世話人(筆頭鴨志田実)をはじめ地元住民の協力のもと、昭和二十八年十二月一日境内の一隅に町営火葬場が建設された。

 その頃から檀徒の増加を目の辺りにしていた隣接地の大谷孝は、墓地に提供すべく自己の居住地八〇八平米の全部を寺に寄進し、次で隣接の田畑所有者大谷正隆も二八〇平米を寺に寄進してからは、檀徒はいよいよ増加して現在に至っている。

 照山修理の墓には樹齢三百年以上の椎の大木が、日立市の保存樹に指定され、寺の移り変りを見守るかのように天空高く聳えている。

 山号  金沢山
 宗派  曹洞宗
 本尊  釈迦牟尼如来
 両大本山 大本山永平寺
      大本山総持寺
 尊像 本尊釈迦
    達磨(吉田修寄進)
    大権修理(照山宏寄進)
    水子地蔵
    韋駄天
 寺号額(阿部光司寄進)
 掛軸 涅槃像
    道元禅師(照山宏寄進)