神永喜八の石炭事業

常磐地方における石炭産業の開祖とされる上小津田村(茨城県北茨城市華川町)の神永喜八の石炭事業を喜八が東京浅草の石炭商に語った記録によって紹介する[1]

神永喜八は文政7年(1824)12月25日、常陸国多賀郡上小津田村に生まれる。姉が家を継ぎ、喜八は別家をたて、酒醤油の醸造及び木材商を営む[2]。上小津田村旗本渥美氏知行所の名主を務める[3]。明治22(1889)〜25年華川村会議員[4]

彼の石炭事業は安政3年(1856)にはじまり、明治33年(1900)まで続けられていることが確認でき[5]、四十年も石炭とかかわることになる。明治43年(1910)年3月25日没、87歳[6]

[註]

  1. [1]山野好恭ほか編『常磐炭礦誌』(1916年刊)「第二章 沿革 四、茨城方面の記録」に収録された「神永喜八石炭発見並に数十年採掘記事」による。
     神永喜八に関する資料は、ほかに「寿蔵碑」と村役人としての喜八の「上小津田村名主御用手控」(『北茨城市史 別巻3』に翻刻)がある。本項では寿蔵碑は参照したが、御用手控については別途紹介する予定。
  2. [2]1906年建立「神永喜八寿蔵碑」(北茨城市史編さん委員会編『北茨城市史 別巻3』に翻刻)
  3. [3]「上小津田村名主御用手控」(北茨城市史 別巻3 に翻刻)
  4. [4]『多賀郡史』(1923年刊)
  5. [5]『茨城県勧業年報 第貳拾回』(1902年刊)
  6. [6]講談社『日本人名大辞典』

目次 — 神永喜八の石炭事業|相給の村|初めての採炭|輸送 山元から港まで|輸送 海上輸送|販売|若森県の窮民救済|史料 神永喜八石炭発見並に数十年採掘記事|史料 神永喜八寿蔵碑


神永喜八の石炭事業

年表ふうに『常磐炭礦誌』に収録された「石炭発見並に数十年採掘記事」によって喜八の活動をたどる。


上に記した神永喜八の活動に関していくつかの事柄について説明しておこう。

相給の村

北茨城市域の江戸時代の領主の構成は複雑である。大きく分けると
Ⅰ 水戸藩の一円支配の中に含まれる市域南部の磯原・豊田・上相田・内野以南の村々
Ⅱ その北、臼場から花園の村々は、幕府領と旗本四氏が一つの村を支配する相給の地(つまり一つの村に領主が5人)
Ⅲ 福島県境の平潟から山小川までの村々は棚倉藩領

これら三つの地域に石炭が分布するのである。

したがって石炭を掘り出すには、一村内で済むならまだしも、複数の村にまたがる場合、領主の許可を得るにしてもそれだけ手続きが煩瑣となる。

神永喜八が名主を務める上小津田村は Ⅱ の地域で、幕府領は塙代官所(福島県塙町)が管轄し、他の旗本の渥美氏・宮崎氏・秋山氏・一色氏領にそれぞれ名主が配置されている。上小津田村は村高474石余、幕府領が158石余、四人の旗本がそれぞれ78石余を領地とし、喜八は旗本渥美氏の名主を務める。

初めての採炭

喜八がみずから採炭を手がけるのは、安政3年(1856)7月のことである。村までやってきた江戸の商人の依頼をうけ、喜八は領主の許可を取付け、村人との交渉をすませ、採炭。そして平潟港の廻船問屋まで駄送する。江戸の商人は和船への積込みをみて、江戸に戻っていった。

この喜八の初採炭・積出しの6年ほど前の嘉永年間、村内に石炭を見い出してまもなく江戸の商人が上小津田村にやってきて採炭し、磯原海岸からの積出しを確認して江戸に帰っていった。喜八は名主として村人や隣村との調整、領主との交渉、人足の確保などに手を貸したであろう。また商人について採炭から輸送船の手配・発送、江戸の石炭問屋とのパイプづくりなど多くのことを学んだに違いない。

石炭の輸送 山元から港まで

喜八らが明治15年(1882)に茨城県の許可をえて懲役囚50人を使役して、道路を補修したうえで、石炭を山元から磯原河岸まで約7キロメートルのゆるやかな下り道を輸送にあたらせた。

これまでなら近隣の農民が馬の背に載せて石炭を運んでいた。一人一頭あたり2俵。農閑期には人と馬の確保は容易であろうが、農繁期にはむずかしい。輸送力に季節性があれば、急な需要の対応にも安定的な生産にも支障をきたす。

ちなみに山元あるいは河岸での保管も1年を限度とされた。劣化して商品としての価値がなくなるのである。

そこで安定的な運搬力の確保をめざして懲役囚の利用を考えたのだろうが、馬をあらたに50頭を確保するのも困難と思われ、人力による荷車での運搬を考えたのではないか、だから先立って道路の修繕を行なったということであろう。しかし「不便」だとして半年でとりやめた。

石炭の輸送 海上輸送

日本鉄道海岸線(常磐線)が福島県平まで開通するのは、明治30年(1897)のこと。それまでは江戸、東京など消費地への石炭運搬は海上輸送である。

積出し港は、嘉永年間には磯原海岸、安政7年には平潟港である。港としての機能は平潟が優れているいるはずである。例えば当時上小津田村はじめこの地(下小津田・小豆畑・下相田・臼場の各村)の年貢の江戸廻漕に平潟港が利用されていたように(北茨城市史 別巻2 村明細帳)

磯原については「當時[明治17年頃]運送不便にして坑業所より磯原へ駄送し、同海岸天妃山下の暗礁を破壊して船着き場所となし、辛ふじて船積を為せしが、本船は概ね一浬余の沖合に碇泊するを常としたり」と『常磐炭礦誌』(35頁)は言う。1浬(海里)は、約1852メートル、この間を艀でむすぶのだろうが、磯原海岸からの積出しは容易ではない。にもかかわらず、積出し港として磯原海岸が選ばれたのは、上小津田から標高140メートルの峠を越え平潟へ向うより、なだらかな下り坂を磯原にでる方が喜八たち採炭者にとっては有利であったからとも考えられる。磯原を石炭積出し港とするのは、南部の水戸藩附家老中山氏領の村々でも同じだった。これらの点については、中山氏領での検討が必要なので後日を期します。

船は和船か君沢形(日本で建造された西洋式帆船)か蒸気船か未調査。「神永喜八石炭発見並に数十年採掘記事」が幕末期の嘉永年間と安政3年の記事で「和船」としているが、以後の記事で輸送船については触れていないのは、明治末から大正初年の貨物船の形式について述べる必要ないまでに当然のこととしている前提があるはず。調べておきます。

この時期における海上輸送については、天候まかせの部分が多く、かつ遭難という危険もある。つまり生産(採炭)よりも流通(輸送)が課題であるのが、この時期における石炭産業の特質と言えよう。

この点については、今後中山氏領(北茨城市南部から高萩市にかけての地域)の石炭採掘について検討していく中で触れたい。

販売

石炭の注文は江戸の問屋からである。それを受けて採掘する、つまり受け身だったのだが、明治4年(1871)に東京深川へ、翌5年に横浜元町に販売店を設け、販売に乗り出したことは、販売の実態はどうあれ喜八の積極的な経営姿勢を示すものである。

ところで石炭の受注から販売までのあいだ、多くの人がかかわる、つまり多種多様な業務がある。それらを管理・統括することを喜八はあえて選んだということである。

若森県の窮民救済

明治2年1月版籍奉還開始、同4年7月14日廃藩置県という御一新がつづく。明治2年2月9日に若森県が常陸国多賀・茨城・真壁・新治・筑波・鹿島6郡および下総国結城・岡田・豊田3郡に散在する旧幕府領・旧旗本領六百五十余ヵ村をもって成立。庁舎は新治郡若森村館山(つくば市)の旗本堀田氏の陣屋に置かれた。

上記註[20]で触れておいたが、喜八が名主を務める上小津田村の旗本渥美氏領は若森県に所属することになった。若森県は、当時凶作[31]に見舞われた窮民救済のために上小津田村などでの石炭事業に従事させようとしたのである。若森県の指示を受けて喜八は明治2年12月「再業」し、三百人余を迎えた。しかし2年後の明治4年10月に若森県廃止にともない事業は中止となり、8400円の損失をだした。その損害金を喜八はじめ関係者5人で負担することになり、採炭事業は関係者のうち喜八と東茨城郡西郷地村の井坂伝弥が引き継いだ。

この借財は喜八たちを長く苦しめることになる[32]。一年程度の短時日の不作への対応に新規に採炭事業を起すことは適していないかった。若森県に振り回されたということではないだろうか。

  1. [31]「石炭発見並に数十年採掘記事」には「若森縣窮民救助の爲」とだけだが、「寿蔵碑」には「凶饉若森縣為救荒集飢民」とある。『茨城町史 通史編』(1995年刊 528頁)に明治元年は霖雨が続き、米麦の生育が不熟で若森県内の多くの村々では破免(定免から検見取りへ変更)となった。翌2年には2回の大風雨があり、鬼怒川などが氾濫をおこしたとある。「凶饉」とはこれらを指すのであろう。
  2. [32]神永喜八の明治12年4月茨城県宛「年賦金残返納方之儀願」(北茨城市史 別巻3 所収)によって窮民救済事業の経過を知ることができる。

史料 神永喜八石炭発見並に数十年採掘記事

上記の「神永喜八の石炭事業」は喜八が亡くなって6年後に刊行された『常磐炭礦誌』(1916年刊行)の「石炭發見並に數十年採掘記事」に拠っている。以下にその原文を紹介する。

あわせて、1906年の建立の「神永喜八寿蔵碑」の原文も紹介する。寿蔵碑の内容は簡略化されているものの、顕彰碑ならではの記述もある。いずれも神永喜八生前に聞き取られ、あるいはまとめられたものであるので、利用に堪えるものであると考える。

 なお、神永喜八は「上小津田村名主御用手控」という記録を残している。これは安政6年(1859)から文久3年(1863)までの名主としての記録であるが、そのうち石炭関連記事を抜きだしたものが『北茨城市史 別巻3』に翻刻されている。この御用留の検討については後日行なう。

[本文]

 四、茨城方面の記録 以上は磐城方面に於ける主な記録なるが、茨城方面に於ては嘉永年間、神永喜八なる人、常陸國多賀郡上小津田村小津田川の水中に於て石炭礦脉を發見せるを以て其の嚆矢となす。浅草區金龍山下瓦町石炭商川来虎之助氏が明治十五六年の交茨城に於て炭礦事業に従事せる際、親しく神永氏より聴取して細大の事實を手記せる備忘録は、當時の状況を髣髴し得可きを以て、左に其原文の儘を摘載す。
   神永喜八石炭發見並に數十年採掘記事
嘉永年間常陸國多賀郡上小津田村小津田川水中石炭礦脉喜八発見す。然るに武蔵國江戸深川扇橋町長谷川與惣次代人松本源兵衛なるもの、神永喜八并に宇佐美吉十郎の両人方へ罷り越し、松本源兵衛申するに、石炭の当地發見の旨聞参り、就ては下総國行徳濱鹽焚場に用ゐ度候間、石炭三百俵磯原河岸迄採掘の上積出し度旨談示に付、直ちに御代官所へ其旨相届け、神永、宇佐美両人は村方地主等示談し、右に依て松本源兵衛は上小津田村字鹽の平に開坑せし處、上層にして炭質悪しき爲め、更に小豆畑村地内字芳の目松崎儀助外一人の所持地を神永、宇佐美両人之を示談し、同所の松本源兵衛開坑す。同坑より石炭三百俵堀出し、磯原村川岸へ駄送し、同海岸より和船を以て東京へ積取り、右松本源兵衛なるもの歸京せり。右は抑も發見第一着の積取なり。其後六年間を經て安政三辰年七月江戸神田岩本町啓助地借浪人照井幸蔵儀、石炭より巴摩油と称する油製法の儀、舊幕府へ願ひ濟みの上、照井幸藏は芝田町三丁目小川平八并に芝西應寺町奈良屋半七等と相謀り、深川龜井戸村に製油所を開設し、右照井幸藏代人神田三崎町四丁目美濃屋岩藏なるもの、石炭採掘の為め、神永喜八宅に罷り越し、同人と懇談の上地頭へ掘取り度旨届出で、願濟の上神永喜八地元村々に示談し採掘の上、平潟港問屋菊池半兵衛方へ駄送いたし、同所より和船を以て龜井戸村製油所に積取り、右美濃屋岩藏は帰京せり。然る場合の處、安政五年十二月の御布達に、安政六年五月より武藏國神奈川宿に於て、五ヶ國貿易御差許し相成り開港の旨、就ては右開港場に石炭夥多入用の由、依て右に積送りの爲め喜八は同年より上小津田村字中倉并に字カラ虫窪へ更に開坑採掘す。其他小豆畑村地内字産子澤并に小瀧、鍋窪の三ヶ所へ開坑採掘す。文久元年小豆畑村地内字遠坊作へ喜八願濟の上開坑す。右八ヶ所炭礦安政三辰年七月より、文久元年酉十月迄六ヶ年間採掘高四万八千六十二俵(但し一俵十六貫目入)出炭中は地頭へ一ヶ年に付金貳両宛冥加永として上納す。且つ小豆畑小津田両村へは村益として一俵に付錢五文づゝを差出す。文久三年四月、關八州石炭生産の村々取調として、御普請役永倉政太郎殿、同見習小川金次殿、上小津田村へ罷り越し、神永喜八宅に十八日間滞在し、礦場実見す。右永倉氏の申するに、此小豆畑小津田の炭坑場は、海岸に近き場所にて、関東第一等の炭礦と賞せらる。慶應二寅年九月十三日御達しに、御進発御用石炭八百萬斤御買上げの上、兵庫表へ廻送の爲め、奥州磐城郡白水邊、常州小豆畑、小津田邊にて掘取の義、河野庄七なるもの受負せしに付、右を喜八掘取出炭す。明治元年奥州戦争の際、常州平潟港に於て喜八は官軍軍艦へ石炭御用被仰付、數千俵を相納めり。明治二年十二月旧若森縣窮民救助の爲め再業す。共救助民は常總各郡より三百余名相集まる。明治四年喜八は東京深川安宅町二番地へ石炭販路擴張の爲め支店を設け、同年十二月より酉年十二月迄支店石炭販賣高四萬五千〇十六俵なり。明治四年十月中舊若森縣御仕法替に付廃業の爲め神永喜八、神永喜平次、酒井善蔵、東茨城内西應寺[西郷地]村井坂傳彌、同郡押延[立延ヵ]村東ヶ崎兵五郎の五名は若森縣従業中損害金八千四百圓、五名にて負擔して小豆畑坑場悉皆引受け礦業罷在り、右坑場の内、車置、遠坊作の両所は井坂傳彌の持とし、産子澤其他は悉皆神永喜八持とす。明治五年七月八日鉱山寮七等出仕津田弘道君並に鉱山長ゴツト、ブレー外七名出張炭礦場を實測す。明治六年日本坑法頒布相成り、同年十二月産子澤神永喜八持分五千坪の借區許可せらる。車置并井坂傳彌持分は千八百坪の借區許可せらる。同七年鉱山太夫山尾庸三君外國人三名隨へ出張の上検査す。明治五年十月横濱本村[元町]へ同所人田邊源藏なるものと神永喜八組合ひ、小賣見世開店せり。同八年鉱山寮御用に付長谷川光忠君出張して、石炭一萬七千斤見本の爲め御買上げ、陸中釜石港へ積送り候事(喜八分)。明治十五年三月中茨城縣より懲役人五十名拝借の爲め、滑川敬三、長谷川兵吉、神永喜八三名より石炭運搬人とし出願許可され、自費を以て中妻村に仮泊所を設立、道路を修覆し、坑場より磯原河岸迄運搬したるも不便の為め同年七月返戻す(中略)。明治十八年三月より同年十月迄八ヶ月を以て、石炭九十萬九千七百七十斤を多賀商社へ磯原海岸にて賣渡す(下略)。

史料 神永喜八寿蔵碑

 

 

[本文]

 [篆額]神永/翁壽/藏之/碑
   前農商務大臣正二位勲一等子爵榎本武揚君篆額
多賀郡採炭實以神永喜八君為其開祖也、君累世居大北川上流、其川岸炭脈露出缺片散落川中黝黒如墨、可拾以焚、故呼河伯炭而/無知其用者、嘉永四年江戸深川人長谷川與惣治聞此地産石炭、欲代行徳者鹽薪遣其管伴松本源兵衛、就君謀採掘因得官允始開/上小津田内鹽平小豆畑内芳目二鑛獲炭塊三百苞、其一苞量凡十六貫、出之磯原海岸回漕于江戸、安政三年七月江戸神田寓照井/幸藏等欲製巴麻油設製場於龜井戸使美濃屋岩藏来求石炭、君因發掘前鑛輸送之、[安政]六年横濱開港石炭需用大起、君更開上小津田/内中倉・唐蟲窪、小豆畑内産子澤・小瀧・鍋窪五鑛、悉擧所獲輸於横濱石炭屋、文久元年尚開小豆畑内遠坊作鑛、自安政三年至是年八/鑛所出炭量上四萬八千六十二苞矣、既出年税金二兩於地頭、尚對一苞出銭五文補助村費、[文久]三年四月幕府普請役永倉政太郎等来/檢炭山稱關東第一、慶應二年幕府有事于長州将軍親發徴石炭八百萬斤、先是磐城白水亦開鑛、因使君及白水鑛送之兵庫、明治元/年世局丕變軍艦東征復徴石炭數千[俵]、因輸平潟港、翌年凶饉若森縣為救荒集飢民以採炭君及井坂傳弥受命監督鑛事、[明治]四年官業/罷君與傳弥等謀償官損金八千四百圓分割炭山以為民業、是年君開販賣店於東京深川、翌年又開於横濱本牧、日本鑛法 [坑] 始立因借/區産子澤五千坪、八年依鑛山寮命送石炭一萬斤於釜石港、十五年滑川敬三等謀借茨城縣懲役夫五十人修造磯原通路以圓運 [圖] 搬/之便、是君採炭経歴之概要也、君尚奨勵造林樹杉檜數萬株、且自移植茶桑漆創製乾鮑蒟蒻粉開産功勞不為少、雖然君一生事業在/石炭矣、君華川村上小津田人喜右衛門長男、母神永氏、文政七年甲申十二月二十五日生、實名敏徳、其先平氏、領備中神長荘中世[徙]/于常陸仕[車]丹波守稱神永氏、車氏亡歸農、姉夫傳重繼父家君別成家、號龜屋、業醸酒醸醤油營木材商數季家産大興、村属旗下士采/地君挙為其名主、初娶仁田氏、後娶野口氏、生二子、男喜代次、女加禰、適三島氏、君率先従事採炭、時運不會屢来蹉跌、為之蕩家産、然尚/辛苦経營不因盛衰變其初志前後五十餘年幾如一日、今茲八十一歳、猶家炭鑛之側日夜汲汲指揮鑛夫執業無懈、可謂真不恥石炭/開祖也、有志士相謀欲建壽碑表功勞、使余撰文、余列姻戚詳君平生因不固辞直叙行事且繋以銘、銘曰
  欝彼炭山 在北川上 始開者誰 維君所剏
  創業多艱 後人受貺 苟益明時 何嘆嗟踢
  報應不爽 天持權量 齢踰八旬 歯髪滋壮
明治三十九年丙午一月              前衆議院議員野口勝一撰
                        東京 星山 山本政之助書
                              東京 石慶龍刻
  1. [語意]
  2. 河伯:カハク、川の神・河童 黝:ユウ、あおぐろい 苞:ヒョウ、俵 丕:ヒ、おおきい