日立観光ライン

ここに紹介する『日立市報』の記事は、戦後まもない1950年(昭和25)6月のものである。

日立市が誕生して十年余、千三百人もの死者をだしたアメリカ軍による空襲・艦砲射撃から5年、破壊された工場は多くが再建され、生産は復旧しつつあった。しかし焼失した市街地には応急の仮設住宅が建ち並び、戦災復興都市計画は1949年に三分の一に縮小されても遅々として進まなかった。そして50年5月に日立製作所は従業員5555人の解雇を発表した。日立工場655人、電線工場117人(『日立戦災史』)

解雇反対運動が繰り広げられているさなかに日立市が発表した事業である。


「日立観光ライン」事業の内容は(1)海浜公園(2)神峰公園(3)神峰山ハイキングコース(4)高鈴山ハイキングコース、これらを造成し、つなげる(連綴する)ことで「日立観光ライン」を形成するというもので、工都日立市の「新生面」として「遊客を吸収する価値は十分にある」と胸を張る。

この記事に掲載された図(下)からライン上にある名勝・古跡をひろってみる。

神峰神社 — 大雄院 — 蛇ノ池 — 蛇塚 — 神峰神社本殿 — 御岩山旭ヶ峰 — 百観音 — 助川城址(楠魂碑・金毘羅池・東平山)

だがこれでは「遊客を吸収」できるのだろうか。記事が「一名勝二古跡の局所をとらず」と言うのも納得できる。だから「ライン」なのであろう。

   日立観光ライン
             経済課商工観光係
 産業都市としての『日立』の名は、既に喧伝せられ、吾々市民はそれを誇りとしていたが、更に観光方面を開拓整備したならば、市の発展に新生面を開く事が出来ると思われるので、市は観光協会とはかって『日立観光ライン』を設定した。
『工都』と『観光ライン』とを結びつけるこのプランは、けだし、遊客を吸収する價値は十分にあると思う。
『日立観光ライン』は、工都を抱擁するえんえん廿七キロに及ぶ環状帯で、太平洋に面する三キロの海岸を海濱公園とし、其北端を起点として神峰公園、神峰ハイキングコースを経て神峰山に至る一線と、更に高鈴山より縣指定の高鈴山ハイキングコース、助川城をへて海濱公園の南端に連る一線であつて、一名勝二古跡の局所をとらず、海山、渓谷、高原、公園、古跡等を連綴した、變化に富む雄大な構想である。
 市は、今、神峰公園の建設中で、面積三萬三千坪、工費三千萬圓、展望臺、ドライヴウヱー、グランド、野球場兒童遊園地等近代的設備をとゝのえ、四季折々の花を賞しえられるのも、こゝ一二年のうちである。
 海濱公園には、ドライブウヱー、水族館、海水プール、遊園場、臨海学園等の計画をたてゝいる。
 高鈴山ハイキングコースは、縣指定のコースで縣よりの整備費十二萬圓を以て、已に指導標の建設を終り、コースの補修ベンチ、休憩所駅前案内板等を計劃中である。
 神峰山ハイキングコースの指導標は近日中に建設にとりかゝる事になつている。
 助川城趾は市唯一の古蹟で之を整備せば公園地としでよく又その史実踏査は山野邊家三代の歴史と日本の黎明期とを知るよすがともなる。
『日立観光ライン』が懸選定の茨城百景となり、助川城趾が茨城新聞社百景人気投票で第一位を占めたのを機会に市民各位の御協力をえて日立市の観光地化に努力したいと思う。
○お願い—観光ラインの指導標其他の施設を愛護していたゞきます。破損したりよごしたりする事は市民の恥になりますから—

『日立市報』第14号 1950年6月15日

工都の観光

戦後まもない時期における観光の語意は「文化や自然に接する非日常的な余暇行動」である現代と大きく変わっていないだろう。とすると市行政は上記のような「ライン」によって外部から「遊客」を集められると考え、企画したのだろうか。疑問である。

工都の市民が日常生活から脱けだし、公園・遊園地・野球場・水族館、小さくともささやかであっても変化を楽しむ。そうした場面を市内で提供する。といった意味合いではないか。

日立市郷土博物館が編集した『日立の絵はがき紀行』という、大正期から昭和戦前期に発行された絵葉書をあつめた図録がある。ここ収められたものから当時の日立市域のどんな風景が選ばれたのか、紹介しよう。助川停車場(のち日立駅)、駅前旅館からの海岸風景、会瀬から助川・宮田の海岸風景、日立鉱山と日立製作所の荷扱所・製錬所・採鉱所・工場や社宅風景である。日立鉱山と日立製作所の絵葉書は観光というより見学者などへの記念品として用意されたものであろう。そして助川と宮田の市街地風景もある。

これらの中で観光地たりうる景観は、海辺の風景のみである。

上:日立鉱山分銅場[1914年頃 大正3]  日立鉱山 日立製作所及電錬所[1914年頃]
中:日立鉱山芝内ヨリ宮田方面ヲ望ム[大正期] (日立市助川)停車場通り[1939年 昭和14]
下:常陸助川海水浴場東暁館庭園  (常陸助川海浜)旅館常磐館[会瀬海岸 大正後期]

日立市郷土博物館編『日立の絵はがき紀行』より

工都の新生面

ところで「新生面」をうちだす事情とはなんだろうか。日立市観光協会が設立されたのはこの年1950年の正月である。その前年49年初頭に日製日立工場の変圧器、製罐、回転機の各工場は復旧したものの、労働争議が相次いで起こった。戦前の1941年9.1万人を数えた人口は、敗戦の45年には3.8万人と半分以下に激減し、50年には5.6万人に増えたものの、戦前段階に遠く及ばなかった。転入が転出を超えるのは51年以降のことである。空襲の悲惨な記憶とその被害の実態が工都の将来に不安をいだかせたのではないか。

都市といえば商都のことである(ちなみに工都という熟語は辞典にない)。これへの転換は不可能である。東は遠浅の海岸、西に山並みがせまり、国道6号と常磐線が南北に走る日立市である。物資や人の流通の拠点になりえない。

とすれば、工都からの脱却という大げさなものではなく、戦災によって人口が減り、寂しくなった町に遊客を誘い、にぎわいを少しでもとりもどそうと「観光ライン」にあわい期待をよせたということなのだろう。