製錬所と大煙突建設作業従事者の回想

明治41年(1908)3月起工の日立鉱山製錬所とその6年後の大正3年(1914)3月13日起工の日立鉱山大煙突。その建設にたずさわった比気留吉さんの回想が1973年9月11日付『いはらき』新聞の日立鉱山PR紙面に掲載されているので紹介する。

  1. [凡例] 縦書きを横書きに改めたほかは、漢字、仮名づかいなどは原本どおり。

大煙突作った誇り

(有)比気築炉工業所会長 比気留吉  [顔写真略]

レンガ積み職人の修業中だった私は、明治四十一年久原鉱業所の職人募集に応じて福島からこの日立に来たのは十八歳。なかば見学のつもりで来たところ大雄院製錬所建設という大事業の職人となっては逃げ出すわけにもいかずついに八十六織の今日まで日立の地に住みついてしまった。私の人生の貴重な経験も思い出も日立鉱山と結びついてしか遠い昔を思い出すことができない。私はその年、久原房之助氏が小坂鉱山からつれてきた腕ききの職人吉田宇吉氏の組に入って鎔鉱炉を納める建物のレンガ積みをした。なにしろ四十尺炉二基、二十尺炉一基の三基を納める建物だったからそれまで見たことも聞いたこともないばかでかい建物だったので半分を山口七郎組が請け負った。ところが建設途中の山口組の方が明治四十一年六月二十三日の昼すぎ突然の強風にあおられ倒壊した。「それ天狗の仕わざだ。山の天狗がおこりだした」と職人仲間で大さわぎ。なかには山におみきをまく者もいた。幸い仲間にたいしたけが人も出さずにすんだ。

大正三年、五百尺煙突建設にはいると私はレンガを背負って積み上げる仕事をした。一日一日と高くなるに従っておそろしくなり多くの仲間がにげ出しては二度ともどって来なかった。煙突の外側は左官、内側はレンガ職が請け負ったが職人がにげ出すので業者も途中でなげ出したりで四回も請負い業者が変わった。高さを感じないようにと足場のまわりをムシロで囲んで見えないようにしたが内側はそのまま。二人がやっと乗れるぐらいの「まきあげ」という今でいえばエレベーターのようなものに乗って作業をしたが囲いがないのでおそろしくて乗りたがらない。時々久原さんの見回りがあったがその時は「それッ」とばかり仕事がはかどった。久原さんの見回り記念だといって名入れの手ぬぐいが配られ職人はそれを大切にふところにしまいこみ親方を中心に盛大に酒もりがひらかれた。久原さんのやさしい心づかいが職人の方にひしひしと伝わりはげみとなってこの大煙突ができたといっても過言ではない。こうして毎日大煙突をみながら生活できるとは職人冥利とでもいおうか。