大煙突建設作業従事者の回想


 大煙突竣工記念 大正3年(1914)11月17日撮影  『大煙突の記録』より

目次──16才で飯場入り|一日2往復 生コン運ぶ|危険防止に幕を張る|日当45銭は魅力|腰弁当で陣頭指揮|完成までいないのが残念|煙突がたおれる|柏餅でゴロ寝|楽しみは活動写真|なつかしい飯場生活


大正3年11月17日竣工の大煙突。その建設にたずさわった高橋正さんが日立製錬所の社内報の取材に答えたものが、『日立製錬所ニュース』第299号(1978年3月1日)に掲載されているので紹介する。

  1. [凡例]
  2.  縦書きを横書きに改めたほかは、漢字、仮名づかいなどは原本どおり。

大煙突建設にまつわる思い出
 高橋正さん(86才)にきく

市内石名坂町に住む高橋正さんは64年前大煙突の工事に直接たずさわったとの情報を得ましたのでさっそくお宅を尋ねてみました。
高橋さんは、明治25年2月8日生れ。86才を過ぎているものの実に壮健で、記憶も鮮明で思い出深く当時の貴重な話をしてくださいました。
若冠16才で大煙突建設作業についた高橋さんは完成間ぎわにおやめになり全国各地の水力発電工事やトンネル工事の仕事を幅広く経験され、その後現在の石名坂町に戻り、一時大みかで石灰山の経営をしたがそれもやめ、現在では同地域の長老としていろいろな相談役をつとめ元気に過しておられます。

 16才で飯場入り

─高橋さんはどこのご出身ですか。

高橋 わしは、宮城県の月舘という片田舎で百姓をやっていました。親父と親父の舎弟はひと歩先に日立に来て滑川の根本さんがやっていた林業の下請作業をしていました。いい金もとれるし、いい仕事もあるから出稼ぎにこないかと葉書をよこしたんですヨ。郷里をあとに助川の停車場へ着いたのは、16才のときでした。舎弟がむかえにきてくれ、桐木田の橋下の河原に親父の飯場がありそこに案内されました。わしが来てから間もなく、大煙突の工事が始ったのです。(大正3年3月13日起工)

─大煙突の工事が始ったときはどんなふうでしたか。

高橋 大きな太い煙突から(ダルマ煙突)少しうえのところに大煙突をつくることになりました。山頂を切りひらいて幅18間深さ2間もあるカマ(基礎)を掘ってコンクリートを流し込んだんです。大きな建物の基礎工事と同じで、いくらコンクリートを運んでもどこに入ってしまうのかわからない。あの時はタマゲましたヨ。

─足場を組む仕事もやったんですか。

高橋 足場を丸太で組んでいくのは九州方面から来たトビ職で、腹がけ、股引、タビをはき、きりっとした身軽な姿で、長い丸太をノコ一丁で切りながら、シュロ縄で結んで足場を築いていったんですヨ。あの真似は素人にはできないです。いい銭もとったが、命がけだった。

 一日2往復 生コン運ぶ

─さっき煙突の基礎工事のときコンクリートを運んだといっておりましたがどこからですか。

高橋 煙突の工事が始まると親父は、桐木田の橋下に高橋飯場を開設しました。元飯場でその下に小さい飯場がいくつかありました。
 あそこはかなり広い河原があって、飯場とコンクリートを練る仕事場がありました。
 コンクリートを練る人は朝6時ごろから始まり、運搬する人も7時にはせっせと運び始めました。丁度逆三角形のような木の箱に生コン2貫目づつ入れて大雄院のお寺の脇を通り、今の神峯ハイキングコースにそって大煙突のところまで背負って運んだんですヨ。
 午前中に一回。昼めしは飯場で済まし、午後からも一回、人夫の多い時は三百人ぐらいで運びました。2貫目丁度に計ってヨ。重くちゃいやだなんて騒ぎ騒ぎ運んだもんだっけ。
 さすがに一回4貫目を背負って迎ぶものはいなかったネ。道中が遠いから。

─そうするとトビ職が煙突工事の足場をつくり、鉄筋を組んでいく人、そこに大工さんが枠組をしていく。高橋さんたちは、そこへ生コンを運んで流し込んだんですネ。

高橋 あの大煙突の基礎から頂上まで直径8寸の鉄筋が3本入っているんですよ。これを上に持ちあげるのは大変だったようです。この3本の鉄筋を中心に直径一寸ぐらいの鉄筋が、網の・目のように細かく組まれ、ここに生コンを流し込んでいったんですヨ。

 危険防止に幕を張る

─工事が進み、だんだん煙突が高くなっていくと…どうでしたか。

高橋 はじめは大きな建物のようなものでたいしたことはなかったが、足場がだんだん高くなると10尺×10尺の幕を張って周囲や高さを感じさせないように危険防止をしたんですヨ。幕を張っても高くなっていく煙突の足場のまわりには幅2尺ぐらいのラセン状の階段がつけられ、階段といっても板に横さんを打ち手すりにつかまりながら登っていくんですヨ。途中一坪ぐらいの避難所が数カ所あるが大勢の人が登り降りするものですから、高くなるにつれ、一日二往復は大変な仕事でした

─どのあたりまで生コンを運んだんですか。

高橋 そうだネ。あの煙突は五百尺(一五五・七メートル)といったから……足場がグラグラ動いて、まるで煙突が動いているみたいで、風にふかれると、気が遠くな句そうでした。
 それでも煙突の頂上近くまで生コンを運んだんだから…運んだ生コンは背負ったまま箱の底紐を引くと流れ落ちるんです。急に軽くなるので、お互いに気をつけるようにしました。

─監督さんも大変だったでしょう。

高橋 会社と請負から監督が出ていたが、よくドナっていました。怪我をさせないためなんでしょうネ。特に生コンを背負ったまま流し込むとき、うまくやらないと生コンと一緒に煙突の中に落ちてしまう。そこに付き切りでいた監督さんは気合が入っていた。こっちだって命がけだったですヨ。

 日当45銭は魅力

─働く人の中には、夢みが悪いとかいって仕事を休む人はありませんでしたか。

高橋 みんな秋田、山形、岩手と東北の遠いところから出稼ぎに来ている人が多かった。
 一日45銭の日当をもらい皆んな喜んで働きました。当時は米一升が18銭、そのころの工賃の相場は18〜20銭です。だから夢みが悪いといって仕事に出ない人はいなかったようです。
 土地の人はあまりこの仕事に出なかったが、滑川浜とか長屋のかあちゃんらが少し出て働らいていたようです。

─休日なんかあったんですか。

高橋 曰曜日なんかないですヨ。天気さえよければ働きました。さすがに、雨や風、雪や氷った曰は危いので休みましたが、銭のとれるのがおもしろくてネ。

 腰弁当で陣頭指揮

─久原房之助さんをご存じでしたか。

高橋 小づくりの人で、わらじをはき腰弁当で毎曰工事現場を見てまわっていたようです。あの方が久原房之助さんだといわれました。久原さんが陣頭指揮をとっていたんですネ。

 完成までいないのが残念

─煙突工事の完成する一ヵ月前に仕事をやめた理由は…。

高橋 あと一ヵ月で工事が終ろうとした時、会社の監普がうちの若いものに仕事の仕方が悪いとか、ああしろ、こうしろと文句をいうもんだから、気の荒い連中ばかりなのでそれなら自分たちでやってみろと喧嘩してしまった。「お前ら帰れ」ということになってしまって……。
 煙突工事が終ったら房総の水力発電工事へ行くことになっていたので、それならいっそ引きあげようということになり、米18俵もらって若いもんと一緒に房総へ引き揚げてしまった。血気盛りだったんですネ。

─会社には大煙突の完成後(煙突本体大正3年12月完成)、足場の組んであるころに日章旗を揚げ記念写真を撮ったのがあるんです[註]
 完成したところで記念写真をとったんだろうと話しているんです。それにあの煙突は、翌年の3月には火を入れて煙を通しているんですヨ。

高橋 いま思うと完成までいなかったのは残念です。

 煙突がたおれる

─そうすると、完全にできあがってから煙突の頂上にあがる機会はなかったんですネ。

高橋 足場の組んであるとき一度あがった、見晴しは最高によかったが、目がまわり大煙突が倒れるみたいで、二度とあがる気持にはなれなかった。
 煙突の真上の周囲は4尺ぐらいの幅だから楽に歩くだけのスペースはありましたが、はいつくばっていました。

─荷車一台を引いて歩けるという話しは本当なんですネ。

高橋 トビ職も知らず知らずに足場を高く組んでいきおどろかなかったが、さすがに取りこわすときはとうして降したらよいのか……。いやな仕事だといってましたヨ。

 柏餅でゴロ寝

─飯場の生活はいかがでした。
 長屋は板だけ張ってある粗末なもの。床板に新聞紙などをはりつけて、風の入るのを防ぎました。そこでせんべい蒲団一枚で寝たんですヨ。蒲団のないときは柏餅といって、蒲団を半分にしてゴロ寝したもんだネ

─炊事やお風呂はどうしましたか。

高橋 みんな男が一週間交替でやりました。炊事用の水は馬車で運び、お風呂はドラムカンで6ヵ所ぐらいつくり宮田川の水を使ってわかしたんです。
 今みたいに汚れていなかったから平気だったんですネ。五衛門風呂かな…ワッハハハ……。

─田舎の生活とどちらがよかったですか。

高橋 塩引きに飯が食えたんでやはり曰立の方がよかった。
 仙台の田舎の農家といっても麦飯や大豆飯でした。サバでも食えたら大したもんだった。

─買物なとはどうしましたか。

高橋 食物の手配はみんな会社がしてくれました。
 米、昧噌、しょう油、野菜、なんでも販売で買えこれを飯場へ馬車で運んだもんだヨ。
 組の者も名前を登録して販売で安く買物ができました。

 楽しみは活動写真

─仕事が終ってからの楽しみは

高橋 みんな東北方面から来た人が多かったんで活動写真など見たことがなくて、今の相賀館の付近かナー、よく見に行きました。

─16才、いい娘さんがいてもてたんじゃないですか。

高橋 今のセメント付近(?)にクサモチといってあちにもこっちにも飲みやがありました。
 組のものと、下駄をカラスコカラスコならし袢纏を着こんで夜遊びに出かけた。結構もてたネ。でも、気の荒い連中だから、酒を飲めば喧嘩はするし始末は悪かった。警察が来てもぶん殴ぐられんなんて……。元気がよかったんだネ。

─会計店なんかあったんですか。

高橋 会計のときたいてい新町に夜店がでて皆んな買物にいきました。夜店は食物と着物が多く作業着は夜店の古着屋でほとんどの人が買っていました。

 なつかしい飯場生活

─いろんなことをお聞したいのですが、最後に大煙突工事の中で一番忘れられない思い出はどんなことですか。

高橋 用事があって日立にくると、必ず桐木田の橋のところから大煙突を望みます。この辺に飯場があり、ここからよくも2貫目のコンクリートを背負って運んだと思うと感無量となります。

─どうも貴重なお話ありがとうございました。

[註]このページのはじめ掲載した写真が、編集部が言う記念写真である。しかしこの写真の中央の日章旗の下に「大煙突竣工記念」とあり、右下には「大正三年十一月十七日写」とある。大煙突の竣工は大正3年(1914)年11月17日としてよいだろう。つまり編集部の解説にある起工が大正3年3月13日であれば、8ヶ月余で竣工したことになる。もちろん大煙突の完成というならば、煙突が機能しはじめる「使用開始日」である大正4年3月1日である。
 なお、高橋正さんの語りを読んでみると、記憶違いではないかと思われて気になる箇所があります。しかし当方に根拠があるわけではないので、読者のみなさんの判断にゆだねる以外にありません。