成沢村の字名の統合
地名は現代において住居表示によって多くの地名が失われたが、江戸時代においても同様に政策によって消失するものが数多くあった。さらに読みかたも書きあらわしかたも変化する。村人によって口承されてきた地名が音から文字に記録される。そのときどういうことが起こったかを知りうる史料が成沢村に残っているので紹介する。
水戸藩では幕末の天保年間に全領検地が行われた。検地の際の丈量(測量)は村の字(あざ)単位に一筆ごとに実施される[1]。そのおり旧来からの字の名称が統合され、検地帳とともに田畑屋敷の形状と縦横の長さを記録した絵図が作成された。成沢村においては統合の過程がわかる絵図(以下、天保図と略)が残されており[2]、さらに成沢村においては万延2年(1861)にあらためて田畑反別絵図(以下、万延図)が作られた[3]。それらふたつと現代の「小地名一覧」[4]を表にした。
註 史料について
- [1]検地は年貢の徴収を目的としているから、測量は田と畑と屋敷に限られ、山林は測量されていない。田畑反別絵図には、山林原野をふくめた一村図が巻末に描かれることが多く、そこには村全体の字名が記されるが、成沢村の絵図は一村図を欠いている。
- [2]天保図は、天保検地の際作成されたと思われる「多賀郡成沢村田畑反別絵図」(瀬谷明正氏蔵)による。なお天保年間の絵図は、表紙、裏表紙のほかそれに近い部分を欠いており(丁数不明)、成沢村のすべての字名を網羅しているということではない。欠損字名については、天保からほど近い時期に作成された万延2年の絵図から推しはかることが可能である。
なお、この天保図の字には江戸時代としてはめずらしく、かなに濁点がふられている。 - [3]万延図は、万延2年(1861)は「多賀郡成沢村田畑反別絵図」(黒沢馨氏蔵)による。これは[2]の下書の天保図を元に作成し直したものと思われる。
- [4]小地名一覧は、「日立市域旧町村大字別小地名一覧 1957年12月31日現在」(千葉忠也『史料による日立市域の町村分合』1968年)による。
字名の統合
天保図─統合前 1842年頃 | 天保図─統合後 1842年頃 | 万延図 1861年 | 小地名一覧 1957年 |
凡例:例えば、「あらや」と「荒や」がある。同一の字を示していると考える。つまり表記のゆれと考え、〈 〉内に他の表記を示した。*には末尾の「表記のゆれ」で簡単な説明をほどこした。 | |||
相川 かやば ぜんだな そり町 | 相川 | 相川 | 相川 |
あらや | あらや | あらや〈荒や〉 | 荒屋 |
いてふのき | 銀杏ノ木 | 銀杏の木 〈銀杏木〉 | 銀杏木 |
池ノ上 池の川 いけ畑 江下タ* 大ぬかり こいぢ とふくね やしき添 | 池の川 | ゐけの川* 〈池の川〉 | 池ノ川 |
いけノ上〈いけの上・池の上〉 うゑの内* 道下 明神上 明神前 | 上ノ内 〈上の内〉 | 上の内 | 上の内 |
阿みだ前 うしろ 後沢 | 後沢 | 後沢 | 後沢 |
表田 川そこ 弁才天 みきの作 みそう作〈みそふ作〉* | 表田 | 表田 | 表田 |
相川 かご畠 かま道* | かまみち 〈かま道・釜道〉 | 釜道 | 釜道 |
かやば 呉坪 | かやば | かやバ〈茅場〉 | 萱場 |
川中子 さご天 せき下タ* | 川中子 | 川中子 | 川中子 |
あわび田* おりと 木ノほい* 木ノほい□□入 下木のほい | 木のほゐ | 木のほい | 木のホイ |
呉坪 神天 よこ田 | 呉坪 〈くれつぼ〉 | くれ坪〈呉坪〉 | 呉坪 |
□□まき | 腰巻 | こし巻〈腰巻〉 | 腰巻 |
あらや 敷ぼふ内* | 敷ぼう内 〈敷ぼふ内〉 | 敷坊内 | 宿坊内 |
だい ひがし | 臺 | だゐ〈臺〉 | 台 |
天神前 | 天神前 | 天神前 | 天神前 |
いてふの木 川そこ 戸崎 どふの前* 馬バ内 まつ崎 | 戸サキ | 戸サキ〈戸崎〉 | 戸崎 |
塚 天神 中内 六十ほつこ | 中内 | 中うち〈中内〉 | 中内 |
まな板 | まないた | まなゐた〈生板・まないた〉 | 俎 |
山田 | 山田 | やま田〈山田〉 | 山田 |
うしろ沢 日ノ入* 山ノ神 | 山の神 | 山の神 | 山の神 |
吉原〈よし原〉* 川中ご とんの坪 いし田小や 天神前 あミだ前 佐の田 | 吉原 | よし原〈葭原〉 | 芳原 |
天保図にない字 ウバ坂〈乳母坂〉・うり堀こ〈うり堀子・瓜堀子〉・大さく〈大裂〉・下山田 | 天保図にない字 姥坂・瓜ボッコ・大作・北見付・桐木沢・下山田・中見付・成沢山・二の相川・檜入沢・東八窪・見付下・南見付 |
天保図の統合例
矢島一男「旧成沢村の小字の移り変わり」(『日立の民間信仰』第4集)より
左から あミだ前→吉原 どふの前→戸サキ 弁才天→表田 みきの作→表田
それぞれに見セ消チし、統合先の字名を□で囲っている。
表記のゆれ
現代において、成沢に日立市のスポーツ施設「池の川さくらアリーナ」がある。この「池の川」は、天保図では池の川、万延図においては「ゐけの川」、小地名一覧では「池ノ川」とある。よみは「いけのかわ」であろう。意識して書き分けているのではなく、その時の気分であり、かなづかいの誤りであったりするのである。池の川は、池から流れでている川という意味であることは容易に想像できる。池は現在でも残っている。日立市指定文化財となっている水漏舎小学校跡にある池で、かつて日立市上水道の水源となっていた。この池から流れ出た水が下流の田を潤し、海に落ちる。
以下、表記のゆれが見られる字名についてとりあげる。
- 江下タ:下にタを送っていると考えられる。江下をコウゲと読むのではなく、エシタと読むのだと。
- ゐけ:意味不詳。池を意味するなら「いけ」でなければならない。
- うゑの内:「うゑ」に漢字をあてるなら、植ゑ・飢ゑ・餓ゑ。上をかな表記するなら「うへ」。
- 「みそう作〈みそふ作〉」:「みそう」に漢字をあてるなら、味噌水となろう。「みそふ」の意味不詳。「みそう」に御荘をあてる向きあるが、御荘をかな表記するなら「みさう」と。
- かま道:かまみち・釜道の3種の表記。かまに釜をあてた理由はどこにあるのだろうか。
- あわび田:鮑なら「あはび」となるが、鮑田ではなんのことかわからない。
- せき下タ:これもセキシタと読むのだろう。漢字をあてるなら堰下となるのか。
- 木ノほい:木のほゐとも。「ほゐ」に漢字をあてるなら蒲葦だが、「ほ」「ゐ」「い」にあてられる漢字はたくさんある。どちらが正しい表記か見当つかない。
- 敷ぼふ内:敷ぼう内・敷坊内の3種の表記。坊ならかな表記は「ばう」でなければならないが。現代において「しき」が「しゅく」に変化し、「ぼふ・ぼう」に坊があてられて宿坊内となった。現代の宿坊内から由来をさぐってはならないことがこれでわかる。
- どふの前:これに堂の前と宛てたくなるが、堂は「だう」と表記する。
- 日ノ入:「小地名一覧」にある檜入のことか。おそらくヒノイリと読むのだろう。日ノ入・檜入・樋入の文字が宛てられる。
- 吉原:よし原・葭原・芳原と4種の表記がある。読みはヨシハラかヨシワラかわからない。
あれこれ
- 天保検地によって字名が三分の一に削減された。天保検地実施のおり「田畑之字ハ先御検地(寛永検地)帳之字を成丈ケ相用可申候」(『水戸藩史料別記』巻19)としたのだが、減少理由はわからない。おそらく他の村でも同様であったことが推測される。
- 成沢村には外の多くの村にある宿とか宿並という字名がない。これは岩城海道が村の中を通るにもかかわらずに宿を形成していない、つまり屋敷地が散在していることを意味する。北隣の助川村に宿がおかれているし、南隣の油繩子村にも海道沿いに家が建ちならんでいるので、成沢村には不要だということか。成沢村の成り立ちのヒントが隠されているかもしれない。
- 本稿で紹介した成沢村の字名の変遷については、矢島一男「旧成沢村の小字の移り変わり」(『日立の民間信仰』第4集)がすでに紹介しているが、読みなどが若干異なる。あわせて参照されたい。