史料 常磐炭礦茨城礦業所の従業員募集
敗戦後の石炭国家統制が1950年(昭和25)5月に廃止されたものの、翌6月朝鮮戦争が勃発すると、日本経済は戦争特需により低迷から上向きに転ずる。そして黒いダイヤブームが訪れる。51年6月には「特需景気につられて炭の売行は極めて好調…例年にみぬ珍現象」が起こり[1]、翌52年1月には「京浜市場に近い常磐炭は掘りさえすれば高値で売れるという活況」を呈した[2]。
そのさなか常磐炭礦(株)の茨城礦業所(中郷礦・神の山礦)が作成した従業員の募集チラシを紹介する。募集対象地域は岩手県である。
[註]
- [1]『新聞記事にみる茨城地域の炭礦と社会 昭和編2』記事1-83
- [2]同上 記事1-86
史料について
- ◦作成時期:1951年(昭和26)5月
- ◦作成者:常磐炭礦(株)茨城礦業所
- ◦形態:B4判横書き 活版印刷
- ◦所蔵:原本は北茨城市土屋三男氏蔵「坑夫募集」綴より。コピーを炭鉱の社会史研究会が保管する。
[本文]
労務者募集のしをり
『常磐炭礦、茨城礦業所』は目下有能な労務者を募集して居ります
當礦は茨城縣にある常磐炭礦で太平洋に面し風光明美の地であり坑内は極めて凉しく水、ガスも殆どなく自然條件に恵まれ設備は高度に機械化された全国稀に見る近代的炭礦であります
現在従業員は二千數百名を數え出炭量も月産三萬噸で業界無類の高能率を擧げ、設備と共に賃金待遇の面に於ても全國最高の水準を行く優秀炭礦であります
故に一度當礦に採用された者は、文化的で民主的な、住みよい、且働き甲斐のある炭礦として皆一様に永久契約を熱望し特別の事情のない限り殆ど退職する者のない有様であります
では何故かゝる遠隔の地まで募集に参るかと申せば、一に懸つて質実剛健な農村有為の青年を求めるからで數多求職者の中でも特に過去の定評ある岩手縣の農村□に希望を掛けたからであります
當礦は炭礦技術の先端たる『カツペ』採炭方式に成功し労資一体となつて増産に努めて居りますが、今回若干の優秀労務者を補充することになりましたので、希望者は別紙『募集要綱』を一覧の上奮つて指定安定所に申込まれまたとない就職の機會を迯さぬ様お奨め致します
(銓衡日)五月 二十三日=沼宮内、二戸 二十四日=盛岡、花巻
二十五日=黒澤尻、水澤 二十六日=一の關、千廐昭和二十六年五月 茨城県多賀郡南中郷村大字石岡八六五番地 常磐炭礦株式會社茨城礦業所 (常磐線磯原駅下車バス二十分) (電話磯原一〇番)
[別紙]
労務者募集要綱
國際情勢の現實的な推移は再び重點産業特に鑛工業の振興を促しその必然的結果として石炭需要の飛躍的増大を招くに至つた、これに照應し當所としては先般来坑道の整備拡張を圖ると共に全國に魁けカツペ採炭方式の採用など、内外施設の改善機械化に努め今や當所は常磐随一のモデル鉱山として斯界に君臨しつゝある。
就いては今般次の如き充員計畫を樹て有能適格な労務者を採用することになつたから希望者は奮つて指定の安定所に申込まれたい。記
採用條件一、職 種 坑内採炭補手(未經験でよい、農村出身者を望む)一、採用人員 一二〇名(満十八才より三十五才迄の男子で単身赴任者に限る)一、就 業 地 茨城県多賀郡南中郷村大字石岡八六五番地
常磐炭礦株式會社茨城礦業所(中郷礦、神ノ山礦)一、雇用期間 六ヶ月(但し希望者は會社の都合により期間延長を認める)一、銓 衡 身体強健(視力一、〇以上) 思想堅實な者で、口頭試問、体格検査、身元調査に合格した者。一、そ の 他 採用者には赴任後銓衡地よりの車馬賃を支給する。
(但し採否に拘らず應募に要した費用は支辨しない)応募手續
一、募集期間 自三月上旬、至四月下旬一、申 込 所 茨城縣(日立) 福島縣(若松、田島、喜多方、須賀川、福島、二本松) 岩手縣(水澤、一の関、花巻)各職業安定所一、銓衡當日携行品 履歴書、戸籍謄本、印鑑待遇のあらまし
イ、賃 金 月収平均……一一、〇〇〇圓位(税込)……含、諸手當ロ、宿 舎 完備せる近代的宿舎の設備あり(宿舎費無料)ハ、食 事 寄宿舎にて給食し食費一日六〇圓を徴収するニ、休日、會計 (休日)月四日乃至五日 (會計)翌月十日と二十五日二回ホ、福利施設 専用のバス、劇場、倶楽部、病院、配給所、運動場、浴場
その他文化施設完備し茨城炭田随一を誇る。昭和二十六年二月 茨城県多賀郡南中郷村大字石岡八六五番地 常磐炭礦株式會社茨城礦業所 (常磐線磯原駅下車バス二十分) (電話磯原一〇番)