史料 日立鉱山の驚異すべき発展
1912年

史料について

当時の日立鉱山

日立鉱山の開業が1905年(明治38)の暮12月で、実質的には翌年から操業であろうから、本記事が新聞に掲載されたのは、開業から6年余のことである。

1906年に中里発電所着工、1908年に採鉱所のある本山から大雄院移転跡地に設置した新製錬所が運転開始、常磐線助川駅と新製錬所間をつなぐ電気鉄道が開通する。この年の産銅量が尾去沢、阿仁、生野鉱山を抜いて別子につぐ4位となる。1910年に神峰山頂に気象観測所移転、芝内工場開設(日立製作所の創業)、1911年には煙害対策の神峰煙道を完成させ、煙害対策と廃物利用のための硫酸工場が操業を開始し、また電錬工場も操業をはじめる。また日立製作所が組織として設置されたのが1912年(明治45)1月1日。

煙害という地域との対立をかかえながら目覚ましい発展を遂げていた時期のレポートであるといえる。


[本文]

 我國に於ける模範的鑛山

▲少壮有爲の材の理想的設備  ▲日立鑛山の驚異す可き発展

「我国に於て最も粋を集めた鑛山は先づ日立だらう」といふ渡邊博士の賛辞を耳にした記者は直ちに上野のプラツトホームに立つてゐた、水戸を過ぎてから所謂阿武隈山脈の餘波が第一次に眼界に迫る、助川驛で汽車を辞して愈々山地に向はんとしたのは正午過であつた、電車の起點から既に濛々たる黄煙を見ることが出来る此處から事務所まで道程三哩餘、單線架空式の電車が貨物運搬の爲に通ぜられてゐる、渾て鐵板で張詰めた頑丈な車である、頓て二哩も進んだと思ふ頃、一種咽返るやうな硫黄の臭が鼻を打つ、鑛夫の長屋屋社員の合宿が隠見する、ガチヤンと止つた電車の音に打出されたやうに導かれたのは瀟洒たる應接問であつた、俟つ事暫時、庶務係長の坂本氏が出て来られて何呉れと親切に案内される……従是三日間、記者は親しく実地踏□を試み多大の材料と豊富なる智識を獲て帰つた、記者は努めて諸君の前に眞実を語る積である(火)

宛然是れ理想郷 遊歴三日、記者の日立鑛山に就て得たる最後の斷案は『殆んど理想に近し』といふにあつた、同山の採掘に掛る鑛石が緻密なる含銅硫化鐵であるが爲に殆んど選鑛の要なくして直ちに製煉所へ送り得る事も其一である、鑛床の幅員の非常に大なる事も其一である、而も其の制度の完備せる點に於ては到底他の企及し得可からざるものがある、所長竹内維彦氏を始め各課擔當の學士諸君の如き殆んど皆三十歳前後の青年のみである。故に新設備を試みるが如きに際しては斯界に於て空前の事業をも促々溌地に實行する、現に来月より使用され可き大煙道の如き、蜿々えんえん五千五百尺に亘つて七個の横穴を有する萬里の長城の如き壮觀である、殊に坑夫長屋の設備に至つては完全無欠を稱するも差支あるまい、之れ實に主人久原房之助氏の高潔なる人格の発現なる事は争ふ可らずである

山齢今猶若し 場所は何所ぞ、阿武隈高原の南端、秩父古生層に属し主として角閃片岩の形成する所である、口碑の語る所に徴すれば四五百年前の發見に係りつとに佐竹藩の稼行したる所である、文久元治の頃、炯眼ある水戸の人士に依つて創始されたが藩中の騒擾に取紛れて休止した、明治に入つて副田欣一氏外數名の經営に委して居たがやがて赤澤合資會社の手に写り、現久原氏が巨腕を揮うに至つたのは実に三十八年の末である、海抜千二百尺餘、多賀、久慈兩郡に跨つて分水嶺を形成し山窮まる所宮田川と成つて太平洋に注いでゐる、始工以来既に七年を經過してゐるが當初両三年は全力を擧げて探鑛に従事し、四十一年末愈々經営に取掛つた次第である、山齢の若さと經営者の意氣旺盛なるとは確かに天下一品である

記者自ら坑道に入る 本坑に達するには電車の終點より更に嶮路一里を辿らねばならぬ、記者は島田工學士の案内に依つて隈なく坑内を視察した、採鑛區域は神峰中盛本坑の二部に分たれてゐて五十尺或は百尺毎に横坑道を開き各坑道は正立又は斜竪坑に依りて連絡されてある、主要竪坑は四個所ありて全坑道の延長五千尺に垂んとしている、一坑道を取るも三千六百尺に亘るのがある、採掘に際しては人力或は鑿岩機を用ひて、採掘する毎に必ず土砂を充填して安全ならしめてゐる、中盛[写真(日立鑛山事務所)あり 省略]部の最大部分の如きは鑛床の幅員優に七十七尺に及び最少の部分と雖十五尺を下らない、喞筒は四臺を用ひて排水に従事してゐるが水は到つて少ないので頗る理想的である、壓氣機の如きも仲々壮觀である、記者は導かれてダイナマイトの發火、所謂『發破』を入れる現状をせられた、島田學士のハンマーの觸るゝ處真に純良なる鑛石なる事をも知るを得た、数日前更に極めて有望なる鑛脈が発見されたといふ、此頃では坑夫一人宛採掘高は六百貫から七百貫に上るさうである、方法は所謂仰掘階段法といふに依つてゐる、最近の調査に依ば機械臺数は下の如くである

 試錐機四臺、壓氣機三臺、捲揚機四臺、ストパアー一〇臺、鑿岩機一八臺、喞筒四臺、扇風機一臺

前述の如く選鑛は頗る簡単で、一部の鑛石中多少の岩石を混有しているので之を除去する爲手選を行へば事足りるので、直ちに製煉所へ送る事が出来る、採鑛課長たる島田學士は今年二十九歳の快活質朴な書生肌の青年で、技師としては深見鈴木の両學士が居る、同じくチヤキチヤキの若手である、社員と坑夫間の友情の如き真に掬すべきものがある、採鑛課の樓上より眺むれば所謂『山の神』の神社が一角に築造されてゐる、坑夫の人心統一は実に此の賜であるといふので同山の如きは特に輪奐りんくわんの美を極めてゐる、本坑を辭して宮田川に沿ふ手下れば一面に沈澱池が設けられてゐる、優に一ヶ月一萬斤位を摂取し得るといふ、蜿々たる複線鐵索が巧みに運用されてゐる、其極まる所は即ち同山の特に誇とする所以の製煉所である

焦熱地獄の如き製煉所 赤煉瓦とコンクリートの建物は即ち製煉所で課長は實地の經験に富んだ、青山隆太郎氏で、技士としては、浜田、有泉、窪田の三學士が居る、山内第一の壮觀は恐らく此一天地に集まつてゐるであらう、絶えず黄燃を一山の中腹に噴出する煙道と焦熱地獄を現世に見るが如き数基の熔鑛爐とは確かに人目を驚倒せしめずんば止まない、熔鑛爐は全部で七基、反射爐を加へて八基である、大なるは四十尺より直徑六尺の圓爐まである、構内には縦横無盡に鐵軌レールが敷設せられてある、鑛石の運搬は勿論、各爐間に於る鈹の運搬や、鍰捨て等も、皆此の鐵軌に依るのである、動力は凡て電力を用いて居る、鑛質其者が単純であるから製煉法も亦到つて簡単である、直に生鑛製煉に附する事が出来る、製銅にはベセマー式煉銅法といふのを採用している、鑛石を投入する階上より爐中を望めばさながら噴火口上に座するが如く赤熱の河が溶々として流るゝ所一種戦慄の氣を催さしめる、製煉に使用する珪石は主として同山の發掘に掛るのであるが他所からも四五十個所買入れる、由来同山の特長とする所は買鑛製煉に在るので種々雑多の鑛石が一ヶ月『百五十萬貫』位輸入される、現に臺湾に於る金鑛も来て居るのをた、運搬の設備としては前述の採鑛場間の複線鐵索及珪石運搬の目的で單線鐵索が架せられてある、排煙は現今では二個の煙突に依て噴出してゐるが、不日例の萬里の長城の如き大煙道から自由自在に排煙を爲す事となるであらう、此の如き思切つた大設備は我國に於て未だ試みられざる所である、瓦斯の一部は硫酸製造所へ送られる、排煙を利用すると共に一方彼の煙毒を少くせんが爲に設けた所であるが、何分未だ試験中に属するので多大の効果を擧げることが出来ぬと謙遜して居るにも拘はらず、吾人は将来必ず有利有望なる事を確信する者である、少くも吾人は同山經営者の煙毒問題に對する苦心を多とせねばならぬ、技士浜田學士も亦キビキビした氣持の良い紳士である

動力 採鑛製煉其の他諸般の動力は總て電力を應用し、専ら人力を省く方針を採て居る、發電所は製煉場を距る十二哩、常磐線磯原驛の奥約二里の所に設け、石岡川の流水を利用し四千「キロワット」の電氣を發生せしめて居る

電氣分銅所の壮觀 電車はコムバーターよりして製銅を直ちに電氣分銅所に送る、電氣分銅所は助川驛と事務所間の中點にあつて全部コンクリートに依て築かれた荘厳なる建物である、闥を排し手入れば先づ電流發動機の大設置に一驚を喫する、ト見る長さ二百七十尺横五十八尺の一室に二百餘個の電槽が底深く築かれて無数の銅板が今や分解に附せられている、鐵橋の如きクレーンは中空を自由自在に横行する、電解液は絶えず流動していて槽底には金銀が泥色を呈して沈澱する、分解に附すれば純銅は九九、八となる、四百キロの機械二臺で一ヶ月百萬斤を摂取し得るといふ、此處を辭して更にカーバイド製造所に入れば今や新設備の最中である、日立製作所は本年一月より独立して自用の発電機電働機、其他の電氣機[写真(日立鑛山製煉所)あり 省略]械及びタービン喞筒等の製作に従事して居る、現に電氣分銅所に於て使用せる發動機の如きは其製作に係る所である、必ずしも絶大の規模といふ事は出来ないが、京阪地方には多大の顧客を有して居る相である、主事小平氏は極めて印象の良い親切な紳士である、茲に記者は同鑛山の作業の全部を巡視するを得た、此外猶助川驛附近の會瀬浜には試験的とは言ひ乍ら四十五間の桟橋が海上に突出して二臺のクレーンが同鑛山の世界的發達を俟ちつゝある事を知らねばならぬ

坑夫の優待方法 今の事務所の在る所は大雄院なる古刹の舊跡である、大雄院の山谷今や毒煙黒塵の巷と化したけれども、三千の坑夫を呑吐するの天地としては、斯かる暗黒の世界に有勝な淫聲邪音を耳にせぬ、一山の風紀何となく奥床しさが身に泌む、坑夫長屋は他所に在つては大抵薄べりの上に座らせて居るが此鑛山丈けは八畳に三畳の清潔な居室を給して大概の家では鶏などを飼養している、水道も引かれてゐるので隔離病者を生ずる事は滅多に無いといふ、記者が巡視した際は宏大な飯場の建築中であつた、戸籍謄本に依るに非ざれば入坑を許さぬとあるので坑夫の流動は比較的少ない、小學校病院も先づ完備に近いと稱すべきである、慰安として何か設けやうとの議も有つたが、土地柄海岸も近く、近村に掛芝居も在るので、比較的此方は楽觀されてゐる、行く行くは何かな設けなければなるまいと考案中である

鑛毒被害に對する設備 鑛山に附帯する大事件は即ち鑛毒問題である、而も實際被害民には同情すべきが多いと云ふので同山では創始以来頗る此點に留意し、多大の努力と多大の經費とを提供して一意専心村民の爲に計つて居る、煙道の設備改良、硫酸製造所の設置皆此意に外ならない、無論問題は感情の融和如何に在るので、庶務課長角彌太郎をして専ら両者間の感情融和に努力せしめて居る、鑛毒の被害は止むを得ない、近傍の山谷一帯は随分枯木寒林と化したのが多いが田畑の如きは却つて人煙が多くなつた爲に肥料の幾倍を獲るので寧ろ耕作の好結果な傾もあるといふ、同山では諸所に試験所を設け林學士一名、盛岡高等農林學校出身の者二十餘名を傭聘して常に調査に従事して居る、未だ発せざるに之を防止して村民の利害の爲に計る真意は大に多とすべきで、確かに他の模範とするに足る所であらう

久原氏以下諸星の人物 主人久原房之助氏が今日に至る拮据經営の尊敬する可き歴史と近代稀に見るの崇高なる人格とは現代の珍として既に世人の耳目に新ならざる所であるが、同鑛山の一草一木も猶且『久原式』に型られてゐる、現所長竹内維彦氏は元と小坂鑛山に武田恭作氏の黒幕として辣腕を揮ひ来つた有数の材であるが久原氏に抜かれて今や陸離として光彩ある手腕を発揮している、而して舊時小坂に於て中堅と稱せられる人士は殆んど日立の一山に會するに至つた、會見二十餘分間に於ける竹内氏の印象は『髪剃の切れるが如く理論明晰で、其の上自信力の強い人で、諸般の計畫を立て着々實行し、短日月の間に日立をして今日の如く、盛況を見るに至らしめたは、多く此の人の力であることを思はしめた、此外矢張り小坂に於ける坑夫の親として尊敬を一身に集めてゐる角彌太郎氏も庶務課長として慈眼一世に垂れている、多士済々、意氣衝天、日立鑛山の前途や春洋の如きものがある、今は産額に於ては小坂別子足尾に譲つているが、近き将来に於て斯界のレコードを破る可きは具眼者の等しく認むる所である、鑛毒防止の爲に植付けられた大島櫻の蔭に立つて告別を告げた記者は双手を擧げて日立鑛山の前途を祝福した

 TOP に戻る