墨塗り学校沿革誌
目次
- 宮田小学校沿革誌の墨塗り
- 戦災記事の墨塗り
- 沿革誌記事から
- 勅語焼却と教育勅語回収
宮田小学校沿革誌(部分)
本山国民学校の罫紙が用いられているが、記述内容は宮田国民学校のものである
宮田小学校沿革誌の墨塗り
日立市の戦災と生活を記録する市民の会編『戦災と生活』(1979年)の史料編にある1941年度(昭和16)から46年度の「宮田小学校沿革誌」を読んでいると、各所に小さな活字で組まれている文章がある。例えば41年4月14日の条にある「遺骨出迎 拡声器取付」である。遺骨出迎が小さく表示されている。
小さな活字で組まれている文章を41年度についてのみ拾いだしてみる。
4/25靖国神社臨時大祭 6/26軍事遺家族慰問講 7/4遺骨出迎 7/8遺骨出迎7/15山神社遥拝式 8/5出征遺家族勤労奉仕日 9/12遺骨出迎 9/15満州国承認記念日 9/20航空記念日 10/18靖国神社臨時大祭 10/19空襲警報下職員非常召集 演習 11/6茨城護国神社鎮座祭 11/7護国神社遷座祭 12/11宣戦詔書奉読式 12/21必勝国民祈誓大会 12/23遺骨出迎 2/1市葬 2/8大詔奉戴日 遺骨出迎 2/18戦捷第一次祝賀行事 3/1満州建国十周年記念日 3/8大詔奉戴日 3/10陸軍記念日 三七部隊軽機分隊昼食 射撃実演見学 3/12戦捷第二次祝賀行事午前八時挙式
これらについては『戦災と生活』の〔史料について〕が次のように説明していた。
国民学校に関する史料は、宮田国民学校及東小沢国民学校の学校日誌の一部を掲載した。墨で消去した部分が多いが、判読できる限りは判読した。その際、墨で消去した事実も知れるように判読したものについては活字のポイントを落とした。
原本(複写版)にあたってみた。これら翻刻されたもので小さな文字でしめされた部分はたしかに墨で塗られていた。「墨塗り郷土誌」と同様なことが行われていたのである。
教科書の墨塗り行為は新しい教科書が作成・配付されるまでのあいだ使用するために必要であった。しかし「沿革誌」はそのようなものではない。沿革誌の墨塗りは、42年度分以降も行われている。墨塗り箇所は41年度と変わらない。兵事・軍事と神社にかかわることが、墨塗りされたのである。そして1946年度以降にはそうした墨塗りはなくなる。つまりそうした記述がなくなるのである。
戦災記事の墨塗り
そしてあらためて不思議に思ったのが、1945年の6月から7月にかけての日立地方へのアメリカ軍空襲記事が墨塗りされていたことである。
次に45年度の記事中墨塗りされた箇所をすべて抜きだす。
四月 八日 塩竈神社例祭、大詔奉戴日(毎月八日挙行)
五月一〇日 神峯神社例祭
六月一〇日 大空襲機海岸(B29〔 〕機海岸工場爆撃)校舎其他被害ナシ
七月一五日 早朝ヨリ小型機ノ空襲、市内ニ投弾アリタルモ本校ニ被害ナシ
七月一七日 午后十一時半頃ヨリ艦砲射撃アリ、部落内ニ幾多ノ被弾アリタルモ
校舎並ニ職員家族ニ被害ナシ、御真影ハ奉遷防空壕へ奉遷セリ
七月一九日 午后十一時過ギヨリ B29ニヨル焼夷弾攻撃アリ 校舎全焼 職員
ノ被害 家屋全焼 御真影ハ奉遷防空壕ニ御奉遷 職員並ニ家族ハ無
事
一一月二八日 戦災[児童数職員数調査、市教職員会報告]
一二月二一日 英霊出迎
一月一五日 詔書奉読式
一月二三日 [未復員]軍人[ニ関スル協議会 於桐木田倶楽部 助川教頭]
二月二〇日 英霊出迎
二月二五日 修身、国史、[地理教科用図書回収、助川校へ送付]
三月一五日 詔書奉読式
*3ヶ所にある[ ]内は墨塗りされていないが、文意がとれるよう記載した。
アメリカ軍の空襲・艦砲射撃に関する記事を抹消せよとの指示が県からあったのだろうか。だが高萩小学校(高萩国民学校 現高萩市)の「学校沿革誌」は、空襲の記事は消されずにそのまま残されている[1]。戦災記事の抹消は宮田国民学校の独自の判断だったと言える。なぜ宮田国民学校ではアメリカ軍の攻撃を抹消したのか。反連合軍、反GHQ的記述と受けとられると判断したのだろうか。
なお進駐軍の宮田国民学校「巡察」は、敗戦の翌年46年7月26日のことである。久慈郡東小沢国民学校では敗戦の年の11月から12月にかけて3回進駐軍が来校している[2]にくらべて遅れたのは、焼失校舎の6月再建をまっていたからであろう。
沿革誌記事から
玉音放送
高萩国民学校は1945年8月15日の玉音放送を “この日、皇国護持にのために邁進すべきとの指導があったけれども、茫然自失。まさに国辱記念日だ” このように敗戦の詔勅を聞いたのだった[3]。
一方宮田国民学校は「本日正午終戦ノ玉音放送ヲ拝聴、萬感胸ニセマリ、語ル言葉ヲ知ラズ(九月十五日以降、毎月十五日ヲ詔書奉読式トシ挙行ス)」とする。元々宮田は記述が簡潔である。その上校舎は焼け、町も焼野原となっていた。多くの言葉を費やす余裕はなかったということであろうか。
御真影奉遷
1945年7月17日夜、日立地方はアメリカ艦隊による艦砲射撃を受ける。あとでわかることだが、この砲撃は日立製作所山手工場や日立鉱山電錬工場を狙ったものであった。目標からそれた砲弾が宮田国民学校近くの住宅地に落ちた。このとき御真影は防空壕に移した。
二日後の19日の夜、日立市の市街地はアメリカ軍機B29による焼夷弾攻撃を受ける。この時も同様に御真影を移した。校舎は焼失した。奉安殿も焼失したのだろう。翌20日宮田国民学校は「学校本部を根本訓導宅に設置す。本日午後御真影を本山国民学校へ御奉遷、二十四日久慈郡町屋国民学校、九月十七日本山国民学校へ御奉遷」した。
そして翌46年1月15日「御真影返遷ニ付全児童ニテ堵列シテ見送」った。堵列とは、大勢の人が垣のように並び立つこと、またその列をさすが、とくに天皇など要人の送迎・護衛・警戒などのため道に軍隊が整列することを言う。この場合、児童であってもまさに「堵列」という表現がふさわしかったのであろう。
東小沢国民学校でも46年1月15日に「御真影奉遷 午前八時学校長奉持して久慈地方事務所に奉遷さ」れた[4]。
こうして各学校から一斉に御真影が消えた。
教科書の回収
教科書の回収に関して次のような指示が1946年2月になされた[5]。通知をだした照沼節義は助川国民学校の校長でもある。
昭和二十一年二月二十日
日立市教職員会長 照沼節義
市内各国民学校長殿
教科書回収ニ関スル件
標記ノ件ニ関シ追テ正式通牒アルベキモ、修身、国史、地理ノ教科
書(教師用書、編纂趣意書、掛図、附図ヲ含ム)ニ付キ家庭ニアル
モノマデ回収シ、種類別、巻別ニ冊数、重量並ニ総貫数ヲ調査シ荷
造ノ上、目録ヲ添ヘ二十五日迄ニ当校ヘ運バレ度
右井村視学殿[6]ノ指示ニヨリ及通知候也
これよりさき、宮田国民学校では、1月30日に「修身、国史、地理教科書廃棄回収」を開始し、2月25日に「修身、国史、地理教科用図書回収、助川校へ送付」した。また成沢国民学校でも46年1月に3教科の教科書の回収が行われた[7]。いわゆる墨塗り教科書が子供たちの手を離れていったのである。
これら3科の教科書の回収は、連合国軍最高司令部がだした教育に関する四大指令のうちの46年12月31日付の第四指令「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」で授業の停止と教科書と教師用参考図書の回収を命じてたことを受けたものである。
神道と教育
アメリカの占領政策文書「降伏後における米国の初期の対日方針」(1945年9月22日)に「超国家主義的及軍国主義的組織及運動ハ宗教ノ外被ノ蔭ニ隠ルルヲ得ザル旨明示セラルベシ」とある。宗教—国家神道と神社神道が国家主義と軍国主義の組織と運動の温床となっていたことへの警告である。
上記「宮田小学校沿革誌の墨塗り」において、神社に関する記事が墨塗りされていることにふれておいた。GHQが45年12月15日にだした第三の指令「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(神道指令)は、神道と神社を国家から分離し、政府がこれを保護、支援することを禁じた。神道が国民の国家主義的思想の形成・浸透に大きな役割をになっていたからである。学校教育がその一端を担っていた。神社行事の墨塗りは、こうしたGHQの認識を受けたものであろう。しかし墨塗りによって事実を隠す行為は、何もなかったことのように作りかえることよりはまだ良心的である。
この第三の指令は「軍国主義的乃至過激ナル国家主義的イデオロギー」を次のように規定する。
日本ノ支配ヲ以下ニ掲グル理由ノモトニ、他国民乃至他民族ニ及ボサントスル日本ノ使命ヲ擁護シ、或ハ正当化スル教へ、信仰、理論ヲ包含スルモノデアル。
- (1)日本ノ天皇ハソノ家系、血統或ハ特殊ナル起源ノ故ニ他国ノ元首ニ優ルトスル主義
- (2)日本ノ国民ハソノ家系、血統或ハ特殊ナル起源ノ故ニ他国民ニ優ルトスル主義
- (3)日本ノ諸島ハ神ニ起源ヲ発スルガ故ニ或ハ特殊ナル起源ヲ有スルガ故ニ他国ニ優ルトスル主義
- (4)ソノ他日本国民ヲ欺キ侵略戦争へ馳リ出サシメ或ハ他国民トノ論争ノ解決ノ手段トシテ武力ノ行使ヲ謳歌セシメルニ至ラシメルガ如キ主義
これらは国家神道の教義とされるもので、日本の対外侵略を「聖戦」として正当化する論理であった。
『国史大辞典』からひいておく。「国家神道は、宗教と政治と教育を一致させ、それらの宗教的基礎となった。制度的にも、一般の宗教は、文部省宗教局の監督下にあったが、神社は、内務省神社局のもとに置かれ、国庫からの公金の支出を得た。国家神道は明確な教義を有していた。すなわち、天皇は、神話的祖先である天照大神から万世一系の血統をつぐ神の子孫であり、自ら現御神(あきつみかみ)である。また、『古事記』『日本書紀』の神話の国土の形成、天壌無窮の神勅にみえるように、日本は特別に神の保護を受けた神国である。さらに、日本は世界を救済する使命があるとされ、他国への進出は、聖戦として意味づけられた。道徳の面においては、天皇は親であり、臣民は子であるから、天皇への忠は、孝ともなるという忠孝一本説がとられた。」(柳川啓一「国家神道」)
勅語焼却と教育勅語回収
多賀第3国民学校(成沢小学校)の「学校沿革誌」に教育勅語の受領状況と返納の記録がある。
- 一、明治二十四年二月十四日 教育ニ関スル勅語謄本下賜
- 一、昭和七年二月十五日 昭和六年十月三十日ニ賜リタル勅語謄本下賜
- 一、昭和九年五月二十五日 教育者ニ賜リタル勅語謄本下賜
- 一、昭和十四年八月十六日 青少年学徒ニ賜リタル勅語謄本下賜
- 一、昭和二十一年七月九日 昭和六年十月三十日賜リタル勅語謄本、教育者ニ賜リタル勅語謄本、青少年学徒ニ賜リタル勅語謄本ヲ焚上ス
- 一、昭和二十一年七月十一日 教育ニ関スル勅語謄本奉遷
いわゆる教育勅語は敗戦の翌年7月11日に県に返納された(多賀第三国民学校「学校沿革誌」)。そのほかの3種類の勅語は、教育勅語返納の二日前に「焚上」された。焚きあげとはゆるやかな表現である。つまり焚書。皇民教育の証拠隠滅である。
次に高萩国民学校の昭和20年6月10日から8月15日までの記録を紹介する。
- 昭和二十年
- 六月十日 日立市空襲ヲ受ケ損害軽微ノ報ヲ聞ク、敵機B29ノ数編隊百機ヲ数ヘルモノ上空ヲ遁走ヲ見ル、投弾音煙ノ上昇スルヲ西南方ニ望ム
- 六月十一日 空襲警報発令ニヨリ児童ノ帰宅ヲ命ズ、上空ヲ旋回ストノ情報ト爆音ヲ聞ク
- 七月十日 空襲警報頻発、児童登校セズ、本校校舎敵機ノ襲来ヲ受ケ飛弾、五六発ヲ数フ、此ノ日高萩町ニ投弾二ケ所、児童家屋二軒、人畜ニ被害ナシ、大豆播種全職員ニテ作業ス、弾痕(第六校舎三、第五校合壁二、西防空壕上一、渡廊下二、正門下二、奉安所ノ壕一)
- 七月十一日 戦局険悪ナル為児童ニ帰宅ヲ命ズ、初二三四ノ授業生十二名指導
- 七月十四日 正午頃釜石艦砲射撃ヲ受ク、職員勤労奉仕ヲナス
- 七月十七日 空襲警報五時二十三分発令、午後五時二十分敵機艦載機来襲セリ、本日午后十一時艦砲射撃ヲウケタリ、石瀧地内ニ着弾アリ、高萩安良川町民ハ横穴壕ニ待避ス、雨天、激雨アリ、雨ノ中ニ鈴木学校長花園教頭学校奉護ニツキ
- 七月十八日 轟音砲火ノ中ニ敵情ニツキ談合ス、十八日零時ヲ過ギテヨリ漸次砲音遠ザカル時ニ砲火見エズ午前八時登校児童少シ掃除ヲナシテ帰宅セシム、職員出勤早クシテ職務観念旺盛ナリ
- 七月十九日 警戒発令ノタメ児童ニ帰宅ヲ命ズ、第一時限后ナリ、此ノ日高萩ハ永久ニ忘レ得ヌ焼夷攻撃ヲ受ケタル日ナリ、午后十一時ナリ、花園教頭、荒宿直訓導ハ町ノ南北一・五粁ニ渡リ猛火大ニ仲シテ家屋包マルヲ校庭ヨリ眺メタリ、鈴木学校長指揮シテ重要書類ヲ壕ニ搬出ス、午后十二時ニ至リ愈々盛ナリ、敵機ハ尚飛来セリ、日立ヨリ北ニ向カヒテ小木津、川尻、伊師浜、伊師町、島名、磯原、高萩ノ順序ニ投弾セリ、カクシテ二十日ノ朝ヲ迎フ
- 七月二十日 縁故疎開児童続々タリ、本日休校ス、戦災状況高萩町大字高萩大半全焼ス、詳細ハ学校日誌ニ記ス、罹災二千五百、午前四時頃ハ全ク鎮火セリ、炊出シテ之ヲ救済ス
- 七月二十一日 欠席児童多シ、十時半帰宅セシム、職員ハ重要書類ヲ整理、戦災職員ニ対スル処置ヲナス
- 七月二十二日 罹災者三教室ニ宿泊ス、特警隊訓練アリ
- 七月二十三日 出席児童学年ノ五ノ一ナリ、疎開児童ノ基礎調査ヲナス、退学児童続出、学年一名居残リテ書類作成デ多忙ナリ
- 七月二十六日 警報発令ノタメ児童ニ帰宅ヲ命ズ
- 七月三十日 空襲警報ニテ児童登校セズ 解除ニヨリテ少数登校ヲ見ル 点呼シテ帰宅ヲ命ズ
- 七月三十一日 午前中平穏ナリ 軍歌各校舎ヨリ挙ガル、日立仲町校へ戦災援護物資ヲ運搬ス、七月中警発十五回ヲ数フ
- 八月十日 空襲警報ニテ本日授業中止 人心動揺ス、職員作業ヲナシ麦穀ヲ施肥ス
- 八月十一日 空襲警報発令、午前十時半帰宅セシム
- 八月十三日 高萩町小爆弾及ビ機銃ヲウク、児童登校セズ休校ス
- 八月十五日 ポツダム会談受諾発表サル 本日空発ノタメ授業中止ス 皇国護持ノ為邁進ノ日トノ指導アレドモ自失ノ感ヲ深クシ、国辱記念日トナスベキナリ
[註]
- [1]「高萩小学校学校沿革」『県民の生活を記録する運動ニュース』第4号(1975年7月10日 茨城県郷土史の会編発行)
- [2]「東小沢尋常高等小学校沿革誌」『戦災と生活』504〜505頁
- [3]前出「高萩小学校沿革」
- [4]前出「東小沢尋常高等小学校沿革誌」。なお多賀第3国民学校(成沢小学校)に多賀地方事務所の46年1月15日付「御真影 六葉」の受領書が残されている(多賀第三国民学校「学校沿革誌」)。この事例からもおそらく茨城県内一斉に回収されたのであろう。
- [5]日立市仲町国民学校「昭和二十年度文書綴」『戦災と生活』523頁
- [6]視学:教育内容・方法の指導監督や教員の人事・言動規制などに強い権限を行使した。昭和22年廃止。村井視学は茨城県の職員であろう。
- [7]成沢小学校「昭和二十年度学事報告綴」『戦災と生活』510頁
参照文献
- 熊谷忠泰「戦後日本における教育政策の推移 1.被占領期」『長崎大学教育学部教育科学研究報告 第27号』(1980年)
- 増田史郎亮「墨ぬり教科書前後」『長崎大学教育学部教育科学研究報告 第35号』(1988年)
- 栃木敏男「民主教育の展開」『新修日立市史 下巻』現代 第一章第五節。この記述を見逃していました。本稿が扱った戦後墨塗りされた学校沿革誌について、くわしくは栃木さんの記述をお読みください。(2019-01-25)