史料 中郷礦閉山に伴う下請労働者救済陳情書

目次 ── 中郷礦の閉山と下請組員|史料 下請労働者救済陳情書|会沢組


中郷礦の閉山と下請組員

常磐炭礦(株)が経営する中郷礦(鉱山名称は茨城炭礦。所在地は茨城県北茨城市中郷町石岡)は1971年(昭和46)8月30日に閉山となった。

常磐炭礦はこれより先に同市内にある神の山炭礦(所在地は北茨城市関本町)の71年末の閉山を決め、中郷礦に新坑を開発し、集約することにしていた。ところが8月14日に中郷礦の坑内で毎分20トンという異常な出水があり、排水が追いつかず、坑口を閉鎖し、採炭作業ばかりでなく排水作業も中止した。そして8月21日の労使協議会において会社は常磐炭礦労働組合に対し閉山を正式通告した[1]

中郷礦にはこのとき、職員・本礦員が千余人、臨時夫、季節・短期雇用者が在籍していた他に、300人を超える下請組員が働いていた[2]

その下請組員の動向を伝える新聞報道を紹介しておこう[3]

   気の毒な"組夫"たち 今後に保証なし
 組夫
"組"と呼ばれる下請け会社が、中郷礦だけで六社。このうち大手を除いたほとんどが連鎖解散。組夫と呼ばれる従業員三百五十人が二十日から二十一日にかけ、全員解雇された。
"組夫"は坑内の支柱組や掘進など、危険な仕事に回り、日給四千円程度で暮らしてきた。しかもボーナスも退職金制度もゼロ。閉山で連鎖解雇されても、本鉱員や臨時員と違ってなんの保証もないし、要求もできずじまい。再就職のあっせんだけは、本礦員並の扱いを受けるというが、閉山のカゲにこうした、"下積み"の人がいることも忘れてはなるまい。
 二十日に"組夫"四十六人を全員解雇して、会社を解散した川上礦業所の社長は「炭礦のように政府に売るものはないが、せめて炭礦につくした実績だけでも政府に補償してもらえないのか。従業員が可愛そうです。炭礦には六社でかけ合う話になっているのですが…」

[註]

  1. [1]『いはらき』新聞 1971年8月20日付 『新聞記事にみる茨城地域の炭礦と社会 昭和編3』所収
  2. [2]「常磐炭礦株式会社概況」 1971年9月
  3. [3]『いはらき』新聞 1971年8月20日付

史料 下請労働者救済陳情書

こうした下請会社から解雇される労働者の処遇についての北茨城市と議会の陳情書を紹介する。

史料について

   常磐炭礦閉山に伴う下請労働者救済対策に関する陳情書
                      昭和46年 月 日

             殿

          北 茨 城 市 長     豊 田  実
          北茨城市議会議長      本 田  博
          北茨城市議会常磐炭礦
          閉山対策特別委員会委員長  今 井  広

[改丁]

 常磐炭礦茨城礦業所中郷礦は昭和46年8月14日異常出水事故に遭遇し、やむなく昭和46年8月30日閉山いたしました。
この中郷礦石炭採掘のため掘進作業等で多大なる貢献をしてきた下請8企業とその従業員422名も、この閉山に伴い離職してしまいました。
この下請業者と常磐炭礦との間には閉山対策契約がなされていないうえに、下請業者は資金能力がないため離職者に対して解雇手当、退職手当等の措置が講ぜられないので、その家族の生活は極度に窮迫し路頭に迷う悲惨な状態においこまれてまいりました。
この問題について下請け業者と離職者の救済を一刻も早く行政措置で実現されるよう、関係業者から市及び市議会閉山対策特別委員会に強い要望がありますが、当市だけでは解決のできる問題ではありませんので、ご当局におかれましても事情しん酌くだされ、右記要望事項について特段のご配慮をもつて救済措置を早期に実現できますよう陳情いたします。

[改丁]

     記

 

 企業名  業者(雇用主)  労務者数  備 考
竹中組 竹中英夫 32人
ユニオン土木  桜井昭一郎 106人
南産業 長南孝幸 45人 45人の中18人は中郷礦臨時礦員
北新鉱発 西館金太郎 76人
川上鉱業 川上保正 48人
新生鉱業 安岡常吉 78人
堀川組 堀川浩吉 17人 中郷礦臨時礦員
会沢組 会沢義雄 20人 中郷礦臨時礦員
422人

会沢組

上記表の最終行にある会沢組については、聞きがたりがある[4]。それによれば重内炭礦(北茨城市大塚)の礦務課長だった会沢義雄さんは、1969年10月の重内炭礦の閉山に立ち会うことになる。残務処理を終えて、12月に重内炭礦を退職。常磐炭礦の要請に応じて翌70年春に会沢組を部下と共に組織し、中郷礦の掘進作業を請負った。

会沢組の礦員20人は、表の備考欄に「中郷礦臨時礦員」とあるのは、会沢さん自身に組を興すだけの資金と時間は十分でなく、所属する礦員の待遇を保証するだけの余裕がなかった。そこで常磐炭礦に条件を提示した結果だった。

 あのころ常磐の労務課長だった高橋進さんが、いくら募集に重内に行ってもだれも来ないという。じゃあ会沢を動かせば三〇人くらいは来るんじゃないか。で会沢が行くんなら常磐に行くとみんなが言う、というわけ。常磐なら潰れないし、俺らの代で炭礦は終わりなんだから、といいこと言うよね。
 時代が時代ですからね。次のこと考えればいつまでも炭礦ではいけねえんじゃないかという意識が広まっていた時代でしたね。それと労働者が高齢化しつつあった時代なんです。重内炭礦はもともと古いですから、礦員はどちらかと言うと本当の炭礦マンていうんですかね、生え抜きの集団っていうのか、そういった者が結構多くいたんですよ。(中略)
 サラリーマンで上席にはなったけれど、そんなにお金があるわけではないですよ。(中略)資金をどうするか。そのためには組として相沢組という名前をつけるけれども、常磐炭礦が融資をするとか、五年間は失業保険がもらえるとかの制度があったんですよ。私が独立して下請けになると該当しませんから切れちゃうんです。常磐炭礦といえどもそう長くは続かないだろうと考えていましたから、自分で連れて行った連中も延長としてそういった恩典が受けられるようにして、会沢組っていうものを作ったんです。人材派遣ではないんだけどね。表面的には常磐炭礦名義の礦員という形をとって。
 常磐での仕事は掘進、延ばすこと。次の仕事の段取り。優秀なのが集まっていないと延びない。常磐はかなり能率の高い炭礦で、採炭の速度が速いですから。

中郷礦は採炭のスピードがある。採炭に追われるようにして掘進作業が行われる。重内炭礦の優秀な礦員で構成された会沢組に掘進作業が委ねられた。8月14日の中郷礦の閉山につながる出水時も、常磐炭礦の礦員と組んで900メートルの坑道を掘り進めていた。

常磐ではいい扱いされていたんだけれども、水が出ちゃって閉山。四六年の八月。一年と少し中郷にいたことになるね。中郷もいずれにしても常磐の力でやれば長いことではなかったと言えるんじゃないですか。順調にこの企画が計画通りに進んだとしてもそんなにもたない。五年から六年だったでしょう。その後は海岸の方に行くんじゃないですか。そこまで行くと通気と運搬でコストがかかりますからね。本来なら竪坑おろすというのが合理的なんだけれども。石炭に将来性があるんなら竪坑をおろすでしょうが、炭礦の将来性は決められちゃっているでしょう。常磐炭礦もここをやるのは、おそらく面子だと思うの。この辺で一番石炭の質がよかった神ノ山は不慮の災害で止めることになってたでしょ。しかも鉱区はもうない。磐城地区は止めてたでしょ。中郷ははっきり言って五年でも七年でももてば、と思ってたんじゃないですか。常磐は組織が大きいだけに、身の処し方はむずかしいんですよね。
  1. [4]会沢義雄「重内炭礦の閉山を礦務課長で迎えて」『聞きがたり茨城の炭礦に生きた人たち』(炭礦の社会史研究会編 2015年3月20日発行)
    本書は紙幅の都合で語りの一部しか収録していない。機会があれば会沢組に関する部分だけでもすべてを紹介したいと思う。