関右馬允・モト 入四間昔話

本ページの関右馬允・モト「入四間昔話」は、『郷土ひたち』第10・11号合巻号(1964年3月刊)に掲載されたものである。

1963年に茨城県教育委員会から入四間地区の民俗について調査を依頼された小田治さんが関右馬允さんから聞きとりをおこなったその記録である。

内容は、暮しと仕事、服装と用具、交通と運搬、食べものと慣習、生活と住居、社会生活、一生の行事と慣習、年中行事の8項目に分けられている。典型的は民俗事象の調査項目である。

本ページでは、村の生産・流通にかかわる3項目について紹介する。民俗調査なので、語られている中身がいつのことなのか明確でないことがあるが、語り手が社会の変化について敏感であることによって一般の民俗学の調査に比して史料として利用できるものとなっている。


一 暮しと仕事

☆ 私達の生活の習慣とでもいう民俗とか或は古い伝承というものは次第に忘れられたり、消えて行こうとしていますが、そういうような事がらを中心に昔、入四間の人々はどんな暮し方をして来たのか、お話をお聞かせいただきたいのですが……。

○ そうですね、ここは行政区域では日立市ですが、山間のことですから旧市内から見ると、生活の様式とか習慣も大分違ったところもあり、また民俗行事にしてもいまなお伝承されている事がらが少くないと思います。こういう話は、おばあさんの方がよく覚えているかな、

と奥さんをお呼びになり、ご夫妻から交々次のような興味深いお話を聞くことができた。

☆ どんな仕事をして暮してきたのでしょうか。


入四間のコンニャク畠 1925年
関右馬允『カメラでつづった半世紀』*より

○ やはり主業は農、副業として山仕事、炭焼きなどです。農業は稲作、大変、小麦、大豆、小豆、いんげん、ささげ等の豆顛、それに蔬菜類などですが、凶作時の備えには里芋を作り、あるいは甘藷、馬鈴薯などもごく少量々ながら以前から作っていました。大体明治四十年頃から栽培され、稗粟は少量、特産としてはコンニャクがありますが、これは出来不出来が多く、また、病害等もあって危険作物とされていました。煙草は不適地です。

蔬菜は純山村時代は自給自足の体勢でしたが、明治末期から大正の初期にかけ、日立鉱山の隆盛につれて次第に発展し、蔬菜農業に変って行き、一時は上農の主婦までが鉱山へ背負商いに行った程です。葱、人参、牛蒡、ナス、キウリ等の作付は飛躍的に増加し、例えば一軒の家でナス、キウリを五百本も植えたものです。其の頃の本山の蔬菜市場は人四間で握っていたのです。

夜の白々明けから淀場よどば(水をせき止め淀ませるから、こう呼ぶのでしょう。)これは川で水を使うのに便利なように岸に板等を張ってある所(川戸とも呼ばれる)で里芋を洗う音で目を覚ましたものでした。背負売りは十貫位は普通で十五貫も背負って行った人もありました。

稲作、麦作は特に他の地方と変ったこともなく、乾田は二毛作にしました。肥料は下肥、堆肥等を使い、農耕には馬を使いました。厩を清潔にすることは農家にとって大切な仕事だったのです。木の葉や青草を敷いてやり、また、これを肥料にしました。カイバ[飼葉]としての青草刈りも大変な仕事で一夏に二百五十駄(一駄は六把)も刈ったものです。

十一月下旬から六月下旬まては農閑期で其の間に炭焼きが行われ、木炭は換金物の代表格です。販路は太田方面で運搬、販売は主として女の仕事でした。これらの運搬は、馬の背を借り、牝馬に六貫俵を四俵をつけ、一人で二頭の馬を扱いましたが、のちに県令により二頭扱うことを禁止されました。太田道、入四間の出口に一口坂という急坂があり、ここまでは男が送ったものです。帰りは空馬で日用品等を買って来ました。こうして毎日、馬の往来で太田の井戸は、馬の小便でショッパクなったといわれた程です。

炭焼きという仕事は、子供がかやを刈り、娘は俵を編み、主婦は販売といった具合に家族全員が労働に従事したわけです。

夜なべは裁縫、粉挽き、繩ない、野菜の選別等をどこの家でも行ったものです。

其他の副業は林業、狩猟などがありますが、狩猟は一人で鳥百羽あるいは兎三十羽位を獲りました。

土着の仕事以外に桶屋とか、大工、鍛冶屋がそれぞれ一軒、下駄作りが二軒ありましたが、これでは暮しが立たないので鉱山へ働きに行ったようです。当時鉱山で働くということは、今と遠って大変下の仕事に思われていましたので、村内労力の余りは多く出稼ぎに行きました。また手間仕事にダチンヅケをしました。(駄賃つけ—馬の背に荷をつけて運び、賃金を取ったので、この呼び名がある。) 以上の様々仕事にはどのような服装でどんな道具を使ったかをお話ししましょう。

二 服装と用具


炭俵運び 1941年
関右馬允『カメラでつづった
半世紀』より

農作業は麦ワラ帽子(夏)鳥打ち帽子(冬)にほおかむり、手には紺木綿で肘の少し上まである手ザシ、これはブヨの被害を防ぐためで全般に使われました。上体はハンキリまたはハンテンという筒袖の着物に綿ネルの下着、下体は紺木綿のモモ引、履物は畑への往復には山草履、畑に入ってはクツカケという古足袋に刺子をした物を使ひ、田には素足で入りました。女は帽子の代りに鳥追傘、絣のハンテンに使い古しの半巾帯、襷に前かけをしたほかは大体男と同じです。

田植のときは、男女とも特に新しい衣服をおろし、惜し気もなく泥田につかったのは、農業の心意気とでもいうものでしょうか。農具は万能、鍬、鋤、唐鍬、草刈鎌など、昔も今も変りありませんが、大正に入って足踏み脱穀器となる前は千歯稲コキを使いました。脱穀は、スリウス(なまってスルス)精米は、水車といった手作業が戦前まで続きました。

稲作の場合、収穫までの作業や農具は大して変っておりませんが、脱穀、調整、精米は機械化したわけです。一体稲作には、どれ位農具が必要かと、試みに私が調査したところオダ木一本を一点とする数え方で何と五百点という数字が出ました。稲を作るということはこのように大変な手間のかかる仕事なのです。米の調整貯蔵には、別に変った点はありませんが、昔は一斗一升桝というものを使いました。これは馬が一回に運ぶ一駄の標準が二十四貫だったのでこの目方に合せるようにモミー升を二百五十匁とし、一俵四斗四升詰としたためでした。俵とも一俵十二貫にして馬の背に左右二俵つけて運んだのです。

小麦、大豆等を総て各戸で粉に挽いた時代には篩は大切な農具で一寸平方六十目、五十目、四十目、等があって使い分けました。網目は絹、馬毛等があり、明治の初期には植物のつるを使った物もありました。馬が農業にとって重要だったことは前にも話しましたが、昔は馬も家族の一員として扱ったものです。大菅の駒形神社は馬の守護神で毎年三月十七日の大祭には馬を盛装して神参りさせたものです。

農耕に運搬に馬は農家の生活と結びついていました。今関東一円、無数に見られる、馬頭観世音や馬力神の石塔はこれらぶ族の一員としての馬の安全を祈願し、また不幸病にたおれた馬を哀んで其の飼主が建てたものです。

山仕事にはダツという背負袋を使います。これは岩シバというこの地方によく見られる植物の繊維を熱湯で煮て軟くしてあんだものです。

三 交通と運搬


長州君と愛馬 1923年
関右馬允『カメラでつづった半世紀』より

今は畠に行くにもオートバイを飛ばす世の中ですが、昔は物の運搬はなかなかの労働でした。山間部の当地では殊にそうです。運搬は総て人の力か、馬の背を借りるより方法が無かったのです。荷車は山がけはしく悪かったので殆んど使われませんでした。背負梯子は今も代表的な運搬具で普通四尺位のものを使い、時に六尺位の物を使います。下肥運びにはコイオケを使います。一斗二升入った物を天びんで担いで、登り道があっても七百から千メートル位は行ったものです。堆肥等を運ぶにはタガラという背負具の一種を使います。これは繩または竹で綱んだものです。馬には荷鞍の上にビクを組み合わせて堆肥をつけます。山からの木出しに使う木そりは昭和に入ってからの物で其の前はハナグリという金具を直接材木に打って引張りました。

交通機関の無い昔の交易は全く乏しいものでした。日用品は太田から求めたほか呉服類、薬品、飴屋、小間物屋、下駄屋等が太田方面から、生魚、塩干物、海産物などが助川、会瀬、河原子、川尻あたりからそれそれ行商人が入りました。地域から出た品吻は前記のように木炭、野菜、また、当時郷倉が油繩子にあってここに米市が立ったので遥々売りに行きました。馬は小中に市が立ちました。酒は八割までがドブロクで間に合せ、日用品を売る店も昔から一軒ありました。明治末期まで祭文よみ、小念仏等の旅芸人が入り、万才、太神楽などは最近まで来ました。

旅館は御岩神社参詣人のため古くから発達し、大正末期まであり、現在でも家号に其の名残りをとどめています。


  1.  * 関右馬允『カメラでつづった半世紀』は、1988年に(財)日立市民文化事業団から出版されました。奥付には著者の名前(ここでは撮影者)がありません。編者の「写真集 カメラでつづった半世紀」編集委員会の名はあります。丁寧なことに会のメンバーの名前までがあるのにです。どうしたことでしょう。ケアレスミスでしょうか。
     1、2枚疑問がありますが、撮影者、つまり著作権者は関右馬允です。まちがいありません。