史料 武運長久祈願の扁額

島崎 和夫

はずされた扁額

神社に掲げられていたはずの奉納額が折笠浜の個人宅になぜ保管されていたのか。敗戦後において墨塗り教科書同様にGHQをおそれた氏子によって神社の拝殿から外されたものであろう。日本軍の中国侵略を正当化し、美化する内容が書かれてあった。しかし支那事変で出征した村出身の兵士5人の無事を祈ったものである。ゴミのように焼いて捨てるわけにはゆかない。あるいは占領から脱する時期が来て再び掲額できる日がやって来るかも知れないと奉納者は考えたのか。時が経過しても、逆もどりすることはなくなった。再び神社に掲げられることはない。敗戦から七十数年にして歴史資料として博物館に寄贈され、日の目をみた。
 この扁額は日本近代の負の歴史を物語るものである。だが保存してきた。その努力に感謝したい。こうして紹介できるのであるから。

史料について

 
左:表  右:裏

凡例

[表]

奉祈 武運長久

小林武雄 坂本力男 坂本要一 沼田哲二 小松東十郎 坂本留吉 市毛健壽 大都政雄 山形鳴海 大都三郎 大津正夫 大都元義 坂本義忠 田所寅雄 市川俊一郎 坂本徳次郎 山形久一

[裏]

大津福二郎謹書  

昭和十三年四月二十五日

昭和十二年七月北支那に端を發したる支那國民政府の挑発的行爲[1]ハ、同年八月上海方面に拡大し[2]支那事變[3]の勃發となり、皇軍は相次て北京、天津、上海其他の要地を攻略し[4]、十二月中旬首都南京城を陥落せしむ[5]。其間皇軍の陸、海、空に於ける勇猛果敢なる奮戰は實に壮烈鬼神を泣かしむるものあり[6]。今や皇軍は北支五省[7]を掌握するに至り、北京及南京には親日要人ニ由る臨時政府の樹立を見るに至る[8]。國民政府[9]は漢口に逃避し、地方の一軍閥的存在に過きさるも、共産軍と合同して[10]長期抗日を唱へ未だ全く屈服するに至らず。■■僅に餘喘を保つのみなりと雖、我國は東洋永遠の平和を確立すべく國民政府を對手にせずとの声明を中外に發表する[11]と共に、長期戰に対応すべく三月の帝國議会に於て四十八億円の戰費と二十七億円の國費を議決し[12]、以て聖戦の目的を達すべく國民上下一致して銃後の護を堅ふしつゝあり[13]

今次事變の爲め当字濱より応召出征せるハ、歩兵沼田定芳、田所龍雄、岩間實の三氏ニして、同岡より大都定一、同軍次の二氏出征す。本日鎮守天満宮の例祭に際し、吾等相胥り額面を奉献して皇軍出征諸士の武運長久を祈るもの也[14]

[註]

  1. [1]1937年(昭和12)7月7日夜、北京郊外盧溝橋の永定河河畔で夜間演習を実施していた日本軍(支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊)に対し盧溝橋を守備していた中華民国国民政府軍(第29軍)が発砲した事件。数発の銃声を日本軍が聞いて、国民政府軍によるものとして反応。発砲者不明。死傷者なし。
     4日後の7月11日、北京で現地支那駐屯軍と第29軍との停戦協定成立。
     しかし同日、近衛内閣は華北への派兵を閣議決定。夜に入り、近衛首相は政界人、財界有力者、新聞など言論界代表を官邸に集め、挙国一致の強力を要請。
     7月25・26日に日中両軍の武力衝突が起こる。日本軍は北京と天津(北京の南東約100キロメートルにある港湾都市)を占領。
  2. [2]8月9日、上海で海軍陸戦隊の大山勇夫中尉と水兵1名が中国保安隊員に射殺される事件が起り、13日近衛内閣は内地から2個師団の派兵を決定、同日上海で戦闘が開始される。
  3. [3]北支事変・支那事変・大東亞戦争
     8月17日、近衛内閣は不拡大方針を放棄。日中両国は全面戦争に突入。
     事変とは宣戦布告なしに行なわれる国家間の武力行為。つまり日本は宣戦布告なしに中国での侵略を拡大していった。
     当初日本側は北支事変と地域を限定して称していたが、9月2日に地域を拡大して支那事変に呼称変更。
     のち41年(昭和16)12月8日、アメリカとイギリスへの宣戦布告の後、12日に大東亞戦争に支那事変を含めると閣議決定。同日内閣情報局は「大東亞戦争と称するは、大東亞新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域を大東亞のみに限定する意味にあらず」と発表した。
  4. [4]11月5日、日本軍は杭州湾(上海の南部)上陸。11月11日、上海全域の掃蕩を終える。11月8日までの日本軍の死傷者40,672人(内戦死者9,115人)、中国軍戦死者25万人前後。
  5. [5]12月13日、日本軍は首都南京(上海の西200キロメートルにあり、1927年4月18日から中華民国国民政府の首都)を占領。このとき日本軍による非戦闘員・捕虜の大量虐殺および婦女への暴行がおこなわれた(南京虐殺)。
  6. [6]「壮烈鬼神を泣かしむる」とは常套句であるが、南京虐殺を国民が知っていたならこのような表現はしなかっただろうと思いたい。
  7. [7]北支五省とは、北京を中央にした河北省・察哈爾省・綏遠省・山西省・山東省
  8. [8]「北京及南京には親日要人ニ由る臨時政府の樹立を見るに至る」とは、中華民国臨時政府と中華民国維新政府をさす。
     前者は37年12月14日、北支那方面軍の指導により北京に成立した王克敏を首班とする政府。北支那方面軍は大日本帝国陸軍所属(37年8月31日設立)。北京に司令部を置き、主に北支(華北)を作戦地域とした。
     後者は38年3月28日、日本の中支那派遣軍(38年2月14日創設)が樹立した政府。江蘇・浙江・安徽の三省と南京・上海の特別市を管轄地域とし、主席にあたる梁鴻志が行政院長、温宗堯が立法院長を務めた。
     いずれも日本の傀儡政権。
  9. [9]国民政府は28年(昭和3)10月、中華民国国民党の指導のもとで組織された。漢口は武漢(南京の西約460キロメートル)の一部。
  10. [10]27年4月以降、国民党と共産党は内戦の状態にあったが、37年7月16日中国共産党は「国共合作を公布するについての宣言」を国民党に手渡す。9月23日、国民党の蒋介石は受けいれ、日本の侵略に対して抗日統一戦線結成のため協力関係をつくった。いわゆる第2次国共合作である。
  11. [11]38年1月16日、近衛内閣は対中国和平交渉打切りを表明。
    「爾後国民政府ヲ対手トセス、帝国ト真ニ提携スルニ足ル新興支那政権ノ成立発展ヲ期待シ、是ト両国国交ヲ調整シテ更生新支那ノ建設ニ協力セントス」との声明を発表し、18日には「対手トセス」とは「否認ヨリモ強イモノテアル」との補足声明を行なった。日本はみずから和平の道を閉ざしたのである。
  12. [12]38年3月26日の第73通常議会(前年の12月24日召集)最終日に一般会計の予算35億1400万円を上回る48億4000万円の臨時軍事費が無修正で成立。財源は公債と北支事件特別税(所得税・法人からの利益配当特別税・娯楽品または奢侈品への消費税)によってまかなわれた。
     国民の負担になるような増税をなぜ誇らしげに記述するのだろうか。政府と国民は一体であるということを表明したかったのか。次項で説明する国民精神総動員運動にそった記述であるに違いない。
  13. [13]「聖戦の目的を達すべく国民上下一致して銃後の護を堅ふしつつあり」とは、37年8月24日閣議決定された国民精神総動員実施要綱と38年4月1日に公布された国家総動員法をうけたものであろう。
     国民精神総動員運動は「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」のスローガンのもとに開始された。
     神社・皇陵への参拝、勅語奉読式、戦没者慰霊祭、軍人遺家族の慰問、出征兵士・英霊・傷痍軍人の歓送迎、建国祭への協力、武道奨励、ラジオ体操、清掃などの勤労奉仕、国防献金など精神教化運動が展開。これと並行して工業・農業の増産運動、愛国公債購入運動、貯蓄報国運動、一戸一品献納運動などの経済国策協力運動が実施。38年2月「家庭報国三綱領」として国旗掲揚・生活簡素化・物資節約・廃物利用・禁酒節煙などをよびかけた。
     国家総動員法は戦時国家総動員の基本法。戦時(事変を含む)に際し、「国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スル」。38年2月24日の衆議院本会議に上程され、代表質問に立った政友会の牧野良三は「国民の権利、義務に関する重大な保障を蹂躙する」危険な立法だと批判したものの少数派にすぎなかった。衆議院特別委員会で法案審議中に説明員として発言中の陸軍省軍務課員佐藤賢了中佐が、野次に「黙れ」と怒鳴りつけた。当時の政党と軍部の力関係を象徴するできごとであった。法律は衆議院と貴族院で満場一致で可決され、4月1日公布、5月5日施行された。
  14.    銃後。この言葉が戦時下において、前線の背後にあってこれを支援する一般国民とその態勢という意味で使用され、一般化したのは、37年12月26日の第73回帝国議会開院式の勅語「朕が銃後の臣民亦克く協力一致して時艱に当れり」からであろう。聖戦という語もこの支那事変あたりから使われるようなったという。
  15. [14]以上の流れの中でこの扁額が38年4月25日に折笠の村社天満宮に奉納された。応召・出征した兵士5人は、茨城県がまとめた『満州事変支那事変太平洋戦争戦没者名簿』(1962年3月刊)にその名はない。ただしこの名簿は本籍地によって掲載しているので、探索に万全ではない。無事に帰ってこれたのだろうか。

その後

1938年4月25日に額が奉納されてからのち、日本は長期戦の泥沼にはまりこんでいく。39年6月日本軍は天津の英仏租界を封鎖。7月26日アメリカは日米通商航海条約の廃棄を日本に通告。40年9月日本軍、仏領インドシナ北部に進駐。9月27日日独伊三国同盟締結。翌41年10月18日東条内閣誕生。11月26日アメリカは日本の満州を含む中国全土からの撤退を要求。12月8日、日本はアメリカ・イギリス・オランダに宣戦布告。大東亞戦争(アジア太平洋戦争)の勃発である。日本は破滅の道を進んでゆく。

参考文献