宮崎報恩会版 新編常陸国誌

常陸国全体をカバーする地誌として早くから(明治中期に)出版され、かつ東京帝国大学教授栗田寛が監修、補訂しているので、多くの人びとに利用されてきた本である。私も利用する。その本について紹介する。私が手にしているのは常陸書房から刊行された宮崎報恩会版、つまりテクストはこの本である。

書 名

「大日本史」編集員のひとり小宅生順の「古今類聚常陸国誌」(寛文年間に編纂、延宝5年(1677)以降改訂)という書物がある。これを補訂する目的をもっていた。その意味で「新編」なのである。

出版年

原本は上巻が明治32年(1899)、下巻が34年に水戸において出版されている。その後復刻本が崙書房から1974年に出版されている。

宮崎報恩会本は判型等をかえて復刊したものである。

著 者 中山と栗田の時代を超えた共著

中山信名・栗田寛共著。

著者は中山信名、補訂が栗田寛とされてきた(本書扉)。しかしのちにふれるが、本書には中山の原著にはない項目が栗田によって加えられているほかに、あまたの補訂がなされている。それらは本書の7割を超えよう。この実体をみれば共著と言ってよい。

中山信名

天明7年(1787)生れ。通称平四郎、信名は実名。父は郷医(町医)の坂本玄周。生まれは常陸国久慈郡石名坂村(日立市)と水戸生れの2説ある[1]。享和2年(1802)江戸に遊学、塙保己一の門に入り、文化6年(1809)23歳の時幕府御家人中山氏の養子となる。翌7年70俵5人扶持を給され、書物御用出役となり、大学頭林述斎に属した。『群書類従』編纂には校訂の任にあたり、保己一の信頼篤く和学講談所の教授に推された。天保7年(1836)11月10日歿。50歳。「常陸治乱記」「常陸編年」「常陸志料」などの著書がある。未定稿が多くあり、「新編常陸国誌」もそのひとつ(『国史大辞典』)

[註]

  1. [1]『新修日立市史 上巻』(1994年)。水戸史学会『水戸史学』第54号(2001年)の口絵写真に「藤田幽谷筆史館雇員推挙状案」が掲載されている。史料解説は裏頁。時は文化4年(1807)12月14日。藤田幽谷により推挙されたのは坂本武兵衛。武兵衛は御目見得格の水戸町医坂本玄周の次男。これが中山信名のことではないかと言うのである。

栗田寛

本書刊行時に帝国大学文科大学(東京大学)教授の職にあった。天保6年(1835)水戸生れ。会沢正志斎らに学んで安政5年(1858)彰考館に出仕、「大日本史志表」の編修にあたる。廃藩後も彰考館編修として「大日本史」志表の編纂に従事。明治6年(1873)上京して大教院編輯課、ついで教部省九等出仕考証掛に任ぜられ、『特選神名牒』の編纂にあたる。10年同省の廃止により太政官修史館掌記に転じ、翌年辞任して水戸に帰る。12年彰考館が再開されると、その中心となって『大日本史』志表の編纂・校訂・刊行に尽力。25年文科大学教授。この間『大日本史』の編修にあたり、志表の編刊を進める一方『神祇志料』『標注古風土記』など多くの著作がある。明治32年(1899)東京の自宅で歿(『国史大辞典』)

本書の成立経過  栗田寛が「闕脱遺漏ヲ増修補訂」

栗田寛の序によれば次の通りである。
中山信名が書き、色川三中[2]が校訂を加えたものに、明治24年(1891)頃から栗田寛が弟子清水正建と子の勤の手をかりて「闕脱遺漏ヲ増修補訂シタ」もの。

  1. [2]色川三中:享和元年(1801)、常陸国土浦城下の豪商の家に生まれる。色川家は薬種商を営み、かたわら醤油醸造を行い、やがて幕府の醤油御用を勤める豪商となった。家督を継いだ文政8年(1825)、以降傾いていた家業を再興する。天保7年(1836)国学者橘守部に入門。以後家業と学問と両立させ、国史・古典の研究をつづけ多数の著述をのこし、蔵書も一万余巻といわれた。安政2年(1855)6月没。55歳。著述に「検田考証」「租庸調考」「続常陸遺文」「常総遺文」などがある。

内 容  江戸時代の史料として使えるのは一部

本書は次のとおり22部門に分かれている。

建置沿革郡名/俗称郡名/郷里/庄保/都邑村落山川/關梁/行路/神社仏寺城池古蹟官職氏族人物文苑/風俗/方言/土産文書

参考までに原著(中山著、色川修訂)の項目は、
建置沿革/山川/郡名/郷里/庄保/関梁(付行路)/神社/仏寺/故城/故蹟/城池/人物/官職/氏族/文苑/流寓/風俗/方言/土産/誌料付録/形勝/貢賦考/十本扇/弁草紙

栗田本のうち都邑・村落・文書の3部門は原著にない(『歴史地名大系 茨城県』文献解題)

たしかに栗田は凡例で

建置沿革、都邑、村落、神社、仏寺、官職、氏族、人物、文苑、土産ハ、余ノ全補ニカヽルモノ多ク

と控えめに「全補」した8項目をあげているが、全22項目のうち太字で示した14項目に数多くの栗田の「補」が入っている。それらは栗田の著作である。

たとえば「郡名」の項の冒頭の栗田による「補」の一部を次に引用する。

〔○原本郡名の目ありて書なし、今常陸風土記、常陸國志、常陸郡郷考、水府志料等ノ書ニ據テ、間鄙見ヲ加へ其闕ヲ補フ……〕

中山と色川の原本には、項目名のみ掲げられているため、栗田が「常陸国風土記」や「古今類聚」宮本玄球「常陸郡郷考」などによって自分の意見を加えたり、闕を補ったというのである。また「村落」の項の冒頭で次のように言う。

〔○原本篇名ノミヲ擧テ、未書ヲ成サザル故ニ、其體裁書法知ルニ由ナケレド、編者ノ意ヲ繹ネテ、村名ハ元禄郷帳ニ據リ、癈置、沿革、位置、境域等ハ、各藩所録地圖、國記、及近時所輯町村ノ雑録等ニ擇ビ、之ヲ古史、舊記ニ參シ、努メテ華ヲ去リ、賞ヲ収メテ、其闕ヲ補ヘリ、神社ノ如キハ一 國通ジタルノ書ナキヲ以テ、僅ニ水戸領及土浦、府中封内ノ記録ニ採リ、佛寺ハ専寺院本末帳ニ従ヒ、縁記鐘銘等ノ徴スベキモノヲ録セリ、然リト雖修選期限アルヲ以テ、仔細ニ探究スルコト能ハズ、或ハ紕謬ヲ免レ難キモノ有ラン、實ニ遺憾ノ至リニ堪ヘズ、……〕

村落の項は、中山の原本に項目名のみ掲げられているものの、記述はない。だが中山の意図をくんでさまざまな史料をもとに編纂した。しかし刊行までの期限がせまっているので、くわしく検討することができなかった。したがって誤謬をまぬかれない、と栗田は述べている。

利用にあたって

中山の著述として、江戸時代の史料として、そのまま使えるのはごく一部である。中山信名著・色川三中修訂の「新編常陸国誌」と栗田補訂で出版された『新編常陸国誌』とは別物と考えた方がよいかもしれない。栗田の記述も出典を示している点で参考となるが、『新編常陸国誌』は、江戸後期と明治中期における学問の水準がそれぞれに反映されている。要注意である。

『新編常陸国誌』の利用にあたって(1)凡例を読むこと(2)各部門冒頭の註記の確認(3)本文をふくめて栗田による「補」の記載確認、の3点をおすすめする。

参考文献