四十八坂

島崎和夫

目次


石名坂と石滝の坂道

標高20メートルほどの石神外宿(東海村)から北方向を望むと久慈川の低地をはさんで石名坂の標高50メートルの台地が屏風のように見える。

水戸からも石名坂が見えた。天明6年(1786)の高倉胤明「水府地理温故録」[1]の台渡村の条に次のようにある。

長者の舊址より石名坂よりはじめ諸方の遠山眺望、眼前の景色たるに…

長者の旧址とは現在は台渡里官衙遺跡(水戸市渡里町)のことで、那珂川を見渡せる標高30m前後の見晴らしのよい台地上にある。ここから石名坂が眼前にあるように見えるというのである。

寛延年間(1748—51)の「岩城道中記」[2]

此坂上より筑波、岩間、笠間辺、水戸の方能ミゆる

と石名坂からのすぐれた眺望をつづっている。

水戸から磯原までの岩城海道がどのような地形の上を通るのか、三つの地域に区分できる。

  1. (1)市毛村(ひたちなか市)から石神外宿村までの標高20〜30メートルの台地
  2. (2)石名坂村から石滝村(高萩市)の間は、標高30〜50メートルの台地
  3. (3)安良川村(高萩市)から磯原村(北茨城市)までの標高5メートル程の低地

(2)の入口と出口にあたる石名坂と石滝両村の南北は標高数メートルの水田地帯である。まさに(2)の地域は、坂上にある郷であると言えよう。

この台地の両端にある石名坂村と石滝村には共通点がある。

一つには坂が長くけわしいことである。石名坂村の場合、台地上にある宿の標高は55メートル。坂の入口にあたる隣村大橋との境界近くは5メートル。差は50メートル。石名坂村をさらに海道を北に進めば、標高65メートルに達する。常陸国内岩城海道の最高地点である。

石滝村も標高約40メートルの台地上から一気に標高5メートルほどの水田地帯に下る。寛政年間の「岩城浜街道中記」[3]の石滝村の条に「石滝坂といふ大坂有」とある。

二つには両坂を挟む宿駅間の距離が短いことである。

岩城海道宿駅間の距離

水戸と岩城間には宿駅が16ほどある。これら宿駅間について享保15(1730)年の川上櫟斎「岩城便宜」[4]よれば、その距離は、1里から2里である。ところが1里に満たないところがある。大橋と森山間である。30町(0.8里)。そして伊師町と安良川間の34町(0.9里)。これらの宿駅の間には石名坂と石滝の坂がある。急で大きな坂における荷継の馬の負担軽減処置であろう。

同書により岩城海道の宿駅間の距離を参考までに示す。

水戸—1里4町—枝川—2里—沢—1里半—石神外宿—1里—大橋—30町—森山—1里—下孫—1里8町—助川—1里9町—田尻—1里30町—伊師町—34町—安良川—1里30町—足洗—1里34町—神岡—1里30町—関田—1里—植田—1里28町—渡辺—1里16町—湯本—1里28町—平

大橋・森山間と伊師町・安良川間をのぞくと平均1里16町(52町 1.4里)である。
  *1町は109m、36町で1里(3.9km)

四十八坂

「浴陸奥温泉記」がある。「水府志料」の著者小宮山楓軒が湯治のため鳴子温泉に向かったときの文政10年(1827)の記録である[5]。その5月14日の条に

石那坂上ルコト四百六十歩、コレヨリ山ニ入ル

とある。「これより山に入る」。これが水戸の人にとって「坂上郷」の印象なのだろう。楓軒は助川の緑川平左衛門宅に泊り、翌15日助川村を出て坂を下り、土橋のかかる宮田川をわたる。そのときに

コレヨリ登降ノ坂多シ、荒川(安良川)ニ至ルマデ四十八坂アリト云フ

と記述する。

四十八坂は、明治に入っても地元の人々に言い伝えられている。茨城県会議長だった野口勝一は1881年(明治14)の「多賀紀行」に次のように記録している[6]

成沢村に入る。石坂磊落行歩甚た艱む。是より迤北い ほく一村を経、一林に入る毎に、阪又阪、腕車わんしや(人力車)乗し過ぐ可らず、一乗一下繁忙厭ふへし、土俗言ふ石名坂より磐城に至る四十八坂ありと、或ハ然らん

四十八坂の起点と終点が楓軒と野口では異なるが、野口が石名坂から始まる四十八坂を成沢で記述するのは、油繩子の宿からゆるやかに下り、諏訪川(鮎川)にかかる土橋を渡ると、急な登り坂がせまっていたからである。現在では切り通しとなっていて想像もできない。たしかに石名坂の坂をのぼりきれば、油繩子までは平坦な道のりである。

いずれにしても石名坂から石滝までの、つまり現在の日立市域は江戸時代から坂の多い地域として認識されていたのである。しかも坂に名前があるのが、石名坂と石滝坂である。この二つにのみ坂の名前がある。あいだの坂には名前がついていない。坂の入口と出口にのみ名前がある。

さて四十八坂はどこか。この探索は時間があったときに調べておきましょう。

楓軒が四十八坂の起点を宮田村にしたわけ

「浴陸奥温泉記」によれば、梅雨さなかの5月14日。めずらしく天気に恵まれて、楓軒は水戸をたち、岩城海道をくだる。石名坂をのぼり、大甕神社の祠官茅根織部助を訪ね、酒と鮮魚の歓待をうける。大沼宿から坂上陣屋(郡奉行所)に向かい、郡奉行梶清次衛門に会う。河原子の浜を過ぎた辺りで雨にあう。旅装が湿る。足早に下孫宿にでる。下孫宿で轎(駕籠)に乗って助川宿に向かう(道中日記に駕籠の記述が出てくるのはめずらしい)。雨はげしくなっていた。助川宿に着く。緑屋という旅籠に泊まる。

雨のなか下孫から助川まで楓軒は駕籠の中にいた。水戸を出て歩き通しだった。雨が強く降っている。簾は下りている。考えごとをしていたか眠っていたか、成沢の急坂も田手沼の長い下り坂も、そして助川宿に入る手前の急坂も楓軒の目には入らなかったし、脚もおぼえていなかった。

雨に降られずに歩いていれば、楓軒も四十八坂を成沢からはじめていたにちがいない。

[註]

  1. [1]『茨城県史料 近世地誌編』所収
  2. [2]著者不詳。『道中記に見る江戸時代の日立地方』所収
  3. [3]『道中記に見る江戸時代の日立地方』所収
  4. [4][5]同前
  5. [6]1881年8月『茨城日日新聞』『新修日立市史』下巻 なお野口勝一「多賀紀行」は、当サイトの |近現代|明治前期| に全文を紹介しています。