関本炭礦の社宅とズリ山 1977年撮影

史料 関本炭礦閉山にともなう常磐炭礦の求人

関本炭礦は茨城県北茨城市関本に所在した茨城県内では中規模の炭礦である。1939年(昭和14)2月、伊藤甚蔵を社長に設立された関本炭礦株式会社(本社東京市日本橋区茅場町)が開発に着手。採掘権登録番号133、鉱区面積154,900坪[1]。1941年に2万4千トンを出炭し、44年にサハリンから朝鮮人従業員72人を受入れた。1949年12月全鉱夫345人、坑内夫数202人。51年以降の出炭は7万トン台を推移する[2]。閉山前3ヶ年平均出炭量は9万9千トン。1962年に改正された石炭鉱業合理化臨時措置法による整理促進交付金対象の認定を受け69年8月閉山[3]。稼行期間31年。


史料について

[本文]

関本炭礦について

  1. 1 資本金  70,000千円
  2. 2 設立 関本炭礦 昭和14年2月1日(旧会社名 山添炭礦[4]) 伊藤甚蔵 菊地□□
  3. 3 最近3ヶ年間平均出炭 99,660TS/年
  4. 4 閉山  7月19日 労職組に閉山申入
        8月6日 閉山条件妥結
        8月末 採炭終了(全員解雇9/1)
        9月末 撤収終了予定
  5. 5 従業員
人数 [構成比%] 平均年齢 平均勤続年数 当所[5]採用予定人数 [構成比%]
職員 41 13.5 46歳 4 5.8
直接員 86(16) 28.4 43歳 48 69.6
採掘 48 15.8 35 50.7
保坑 21 6.9 13 18.8
その他 17 5.6
間接員 34(5) 11.2 41歳 11 15.9
運搬 12 4.0 4 5.8
電工 4 1.3 2 2.9
機工 6 2.0 3 4.3
その他 12 4.0 2 2.9
坑外員 66(19) 21.8 41歳 6 8.7
外機工 5 1.7
電修 4 1.3 2 2.9
鉄工場 8 2.6
その他 49 16.2 1 1.4
女子 16 5.3
243(40) 80.2 42歳 9.8年 65[6] 100
臨 時 40 13.2
組 夫 20 6.6
合計 303 100

職員41人のうち11人は役職者  ( )内は通勤者[7]、内数


[註]

  1. [1]1940年版『鉱区一覧』
  2. [2]炭礦の社会史研究会『聞きがたり 茨城の炭礦に生きた人たち』巻末解説
  3. [3]神の山炭礦の閉山については新聞記事がある。1949年8月2日・6日、9月1日付の『いはらき』新聞。炭礦の社会史研究会編『新聞記事にみる茨城地域の炭礦と社会 昭和編3』(2006年)に収録されている。
  4. [4]山添炭礦は、福島県石城郡勿来町(いわき市勿来)酒井赤坂にあった炭礦で、鉱業権者は(株)山添炭礦(代表取締役山添代次郎)、東京市杉並区に本社がある。1937年の送炭高は約1万2千トン、従業員87人(『昭和13年版 常磐炭礦概要』)。関本炭礦は酒井赤坂から直線距離にして2キロメートルほどにある。つまり県境の隣りあう炭礦だった。なお山添炭礦の関本での採炭実績はない。
  5. [5]神の山炭礦と中郷炭礦をあわせた茨城礦業所のこと
  6. [6]職員の4を除いているか。65という神の山礦が採用を予定している数値は退職者の約3分の1である。関本炭礦閉山時に稼働中の茨城県内の炭礦は、ほかに重内・常磐中郷・第二望海・櫛形の4炭礦があったので、5炭礦で調整した数値であろうか。
  7. [7]通勤者は非社宅在住者。逆にいえば8割を超える従業員が会社が用意する住宅に居住していることになる。

訂正 本ページのタイトルを、作成当初「史料 関本炭礦閉山にともなう神の山炭礦の求人」としていたが、あらためて検討してみると神の山炭礦だけの求人だけでなく中郷炭礦(正式には茨城炭礦)を含めた常磐炭礦(株)茨城礦業所の求人とみなすべきであると考えるにいたったので、タイトルおよび「史料について」「註」の一部を修正したことをお伝えする。利用された方にはお詫びします。 [2018-07-12]