大甕ゴルフ場用地買収紛争

島崎和夫

国土地理院1940年測図 1/5万地形図(日立・那珂湊)を使用
この地図上でゴルフ場は、北は大甕神社─茨城キリスト教学園、東は常磐線、南は日立商業高等学校・久慈中学校、西は南部支所北の交叉点─大みかけやき荘、これらのラインに囲まれた区域として描かれる

茨城県久慈郡久慈町(日立市)大甕の日立製作所のゴルフ場において、昭和11年(1936)10月11日開場式が行われた。「日鉱社長の始球 日立ゴルフ場開き」との見出で、茨城県知事、茨城県警察部長、常陽銀行頭取、小平日立製作所社長、伊藤日本鉱業社長ら300人が出席して行われたことを『いはらき』新聞が伝える[史料1]

ところでこの日の新聞2面に「有志の鎮撫で先づ無事 大甕ゴルフ場開場式」という見出の小さな記事が載っている。ゴルフ場の一角で買収が済んでいない農地の小作人が肥料(おそらく人糞尿)を撒こう(つまり開場式を妨害しよう)としたが、久慈町会議員らの説得により中止したというのである。またゴルフ場内を大甕神社への参道(町道)がよこぎっており、その道を行進しようとして日立製作所の守衛にさえぎられたというのである[史料2]

開場式というめでたいときにこのような騒動がなぜ起ったのか。それを新聞報道によって経過をたどってみる。

ただし新聞記事が事実をあやまりなく伝えているとは考えていない。誤記もあるだろうし、推測や噂で書いてしまうこともあるだろうし、あるいは政治的な意向が反映され、一方の考え方のみを紹介していることもあるだろうし、書かれないこともあるだろう。しかし新聞記者があるいは新聞社がこのように報道したという事実は動かない。

だがこの紛争にかかわる記録は、新聞記事しかない。たとえば[史料2]に登場する一方の当事者である五来新五衛門の回想録『ひとすじの道』にも関連記述はなく、新聞記事は重要な史料であることにかわりない。

目次


工場の「南進拡張」

明治43年(1910)茨城県多賀郡日立村宮田に日立製作所は創業した。大正13年(1924)にとなりの高鈴村助川に電線工場、昭和5年(1930)助川町に海岸工場を新設した。昭和9年からは日立製作所はみずから工場用地の取得にのりだし(それまで土地の取得や福利厚生施設は日立鉱山に依存していた)、海岸工場の拡張(海下・会瀬工場)をはかっていく。

その一方で昭和11年(1936)11月に助川町のとなり河原子町・国分村にまたがる地に33万坪(109万m2=109ha)の用地の買収に着手し(多賀工場)、翌12年11月に完了。14年には那珂郡勝田・中野・川田(ひたちなか市)に100万坪の土地を手に入れた(水戸工場)[1]

久慈町での用地買収もこの工場の「南進拡張」の開始期に行われた。各工場はそれぞれ常磐線の助川駅(日立駅)、下孫駅(常陸多賀駅)、大甕駅、勝田駅に接して設けられた。まさに「南進」である。

[註]

  1. [1]『多賀町の新生と坂上村の合併』『日立工場五十年史』 なお水戸工場用地の買収過程については、『勝田市史 近代・現代編 2』、高橋市蔵「勝田雑記 小さなくぬぎ林」(『Pen・友』第9号)に詳しい。

順調にすすむ工場用地買収

1935年 久慈町会議員の海岸工場視察記念
(日立市郷土博物館『写真集 のびゆく日立』より)

昭和10年(1935)の早い時期に日立製作所は久慈町での分工場建設を企図した[史料3]。日立製作所は大甕神社東側の耕地18万坪(59万m2=59ha)を分工場の用地として買収交渉に入った。関係地主は300余人、日立製作所提示の買収価格は1反(約1000m2180円、地主は200円以上を希望していた。

この昭和10年3月21日付の記事に次のようにある。

日立製作所では久慈郡太甕神社前の耕地約十八萬坪を買収し分工場を設置すべく交渉し事は既報の如くである

「既報」は現段階では見いだせていない。「既報」の探索を続けたい。

と書いたが、最近「既報」にあたる記事を見つけた。[史料11]として全文を追加し、紹介するが、工場用地としながらも、ゴルフ場であるかもしれない、と報道している。とするなら日立製作所は当初からゴルフ場をもうける意図があったとのではないか。[この段落追加 2017-07-02]

1935年4月6日付『いはらき』新聞

この記事に続いて2週間後の4月6日には日立製作所の持株会社である日本産業(日産)の社長鮎川義介から「この用地は如何なる工場に使ふかは云へないが子会社で工場を建てることゝなつている」という発言を引きだしている[史料4]。子会社とは日立製作所のことである。

用地買収は順調に進んだ。同年4月15日付の記事[史料5]の見出しは「五月末までに 土地買収を完了 製作所久慈工場敷地」であった。用地19万坪のうち久慈町分は17.5万坪(残り1.5万坪は多賀郡坂上村水木と思われる)。関係地主303人。買収価格は反(300坪)当り平均200円(現代との比較は意味がありません。工業の発展による都市化が地価が押しあげているからです)

麦作刈り取りと同時に直に事業に着手し、年内には一、二工場の建築を見るに至るであらうと言はれてゐるから、実現の暁には地元町村は勿論経済的に隣接町村太田町方面まで恩恵に浴することゝなる

と工場新設に期待をこめて記者は書く。

この年8月25日の新聞には「十萬坪買収問題で 日立、助川両町果然緊張」という見出しの記事が掲載される。内容は、久慈町での工場用地のさらなる提供の動き、それに触発された河原子町・国分村も工場誘致に乗りだしたこと、それらに日立町と助川町が「歴史ある日立工場を他町村へ仮りにも奪取さるゝが如きことがあつては町の面目にも」かかわると日立製作所の他町村での拡大に危機感をつのらせている記事を載せた。町村の綱引きがはじまった。それほど農産漁村は困窮していたということである。

買収価格への不満と町政の混乱

昭和10年10月27日「製作所の交渉に応じ土地を賣つたが價額が安過ぎた」として地主代表が県知事に嘆願書を提出していたところ[史料6]、翌11年3月7日付の新聞報道[2]によって不満が噴出した。それは、河原子町・国分村の工場誘致活動が功を奏し、買収価格は畑地が反あたり265円から350円、水田は平均600円と日立製作所と両町村の間で合意がなったという記事であった。畑地価格は久慈町の1.75倍である。

この報道の六日後の新年度予算案を審議する町会において「非役場派」が日立製作所の土地買収をとりあげ、「役場派」と対立を深めた。非役場派議員は8人、役場派議員は6人。久慈町会における対立は、昭和3年の新町長就任直後から町政運営をめぐって起っていた[3]。それに町長主導の土地売却とその価格決定経過への不信が加わったのである。

  1. [2]昭和12年3月7日付『いはらき』新聞。見出は「日立製作所工塲/南多賀へも建設か/土地買収計画進む」
  2. [3]『いはらき』新聞および五来新五衛門『ひとすじの道』(1983年)。この『ひとすじの道』にはゴルフ場問題は登場しない。

工場からゴルフ場へ

前述のように昭和10年4月15日付の記事[史料5]が年内には工場建設に着手されるであろうと伝えた一年後の昭和11年4月1日に

日立製作所がゴルフ場新設のため久慈町地内の土地買収に端を発した久慈町会の紛争は未解決の侭

と『いはらき』新聞は報道した(工場からゴルフ場への転換を伝える記事は、これ以前にみつけられなかった)

だがどうしたことか、翌月5月2日付の『いはらき』新聞は「工場敷地の買収問題」と題する社説をかかげた。ひと月たっても「工場用地」のままである。社説は将来をみすえて「慎重に研究」をと呼びかけるものであったが、

吾等は国策遂行の立場からこの種事業は大いに援助せねばならぬ義務がある。故に工場敷地買収に対しては、出来るだけ地方民が法外な主張をせぬやう導かねばならない[中略]人の生命は、唯農民として立つ事のみによつて繋がれるとは限らない。商業、工業その他幾らでも途があり、殊に彼の地方においては漁業者としても立つことが出来るのである。故に将来立つ事の出来る目算を早急に講じて徒らに問題を紛糾せしめざるやうすべきであり、又国策的見地からも多少の犠牲は忍ばねばなるまい

と説く。

昭和11年7月9日付の『いはらき』新聞は「竣工近き 大甕ゴルフ場 新名所が一つ増す」という見出しの記事を載せる。

日立製作所がこの程常磐線大甕附近高臺に買収した約十八万坪土地は飛びかふ種々のデマの中にゴルフ場としての施設を備へつゝあったところ大体完成に近づき…

そして10月11日にゴルフ場の開場式を予告する新聞記事がでる一方、前日の10日にコース内の一部未買収地に地主たちが立入禁止の立札をたてるという行動にでたことを伝える[史料7]。そして開場式当日の様子は先の史料1と2で伝えられたとおりである。

ゴルフ場開場式は無事行われた。しかし18コース内に未買収の土地が1町3反(約1.3万m2=1.3ha)ほど残っていた。未買収地の所有者や買収価格に不満の町民たちの意見は「工塲建設の敷地ならば無償で喜んで寄附するが有閑階級の遊戯塲では絶對反對である」という言葉に集約される。

河原子町・国分村と久慈町の買収価格の差はどこからきたのであろうか。工場用地(生産手段)であるなら価値を生みだすが、ゴルフ場から製品は生まれない、といったことなのだろうか。

これはともかく田畑を手放しても工場になるならば町民の就労場所として期待されただろう。河原子町長が

御承知のやうに狭い町でして、農といつてもこれといふ産物がある訳でもなく、ほんの小百姓の集りで御座いますので……常になんとかして工場でも建てゝ貰ひまして日立、助川のやうになりたいと考えて居りましたのです

と述懐している[4]が、久慈町の理事者も同様であったにちがいない[5]。買収に応じた久慈町民の落胆は容易に想像できる。それがゴルフ場反対運動に勢いをつけたにちがいない。ゴルフ場用地をめぐる紛争は、翌12年になって地元出身代議士の仲介もあったが、解決の糸口すらみいだせなかった[史料8]

  1. [4]『多賀町の新生と坂上村の合併』(1941)
  2. [5]久慈町も河原子町、助川町会瀬同様に漁業主体の町である。これらの地域の経済的社会的背景をさぐる必要があるのだが、力不足である。

紛争は鎮まったのか

大甕ゴルフ場の紛争を伝える最後の記事は、昭和12年10月21日付のものである[史料9]。これ以後紛争が解決したのか、それとも報道しなくなったのか、新聞からだけではわからない。この紛争中の12年7月7日、盧溝橋事件が起り、支那事変(日中戦争)がはじまったことがなんらか影響しているかもしれない。また10月21日のこの記事に、9月に県総務部長から日立製作所に転身した山本秋広[6]総務部長が県庁に出向き「高橋特高課長と鳩首協議せる模様」という一文がある。

そして2週間後の11月4日付の記事[史料10]は「時勢に目覚めた地主 土地賣却を申出づ 日製工場拡張好転す」という見出で河原子町・国分村での用地買収交渉がまとまる見通しを伝えるなかで「国防上絶対の必要を認められてゐる大甕ゴルフ場の重要性もいよいよ増大する」と述べる。国防とゴルフ場がどのように関連するのか。この表現ではわからない。しかもゴルフ場用地買収紛争などなかったかのような言い回しである。

想像をたくましくすれば、社会運動を取り締まる特別高等警察の介入によりゴルフ場反対運動は急速に沈静化したか、あるいは反対運動の動向を新聞社が伝えなくなったか。

  1. [6]山本秋広:明治26年(1893) 10月現在の和歌山県新宮市生れ。大正8年(1919)東京帝国大学法科大学政治学科卒業。農商務省に任官。のち内務省に転じる。昭和3年(1928)貴族院書記官の時欧米諸国を視察。昭和10年5月茨城県総務部長。同12年9月日立製作所日立工場総務部長。16年には副工場長兼総務部長。日立電鉄(株)、日立水道(株)、日立土地(株)の取締役を兼任。17年2月5日日立製作所傘下の大坂鉄工所(後の日立造船)へ(『多賀町の新生と坂上村の合併』『日立市報』1942年2月15日号より)。

その後

翌昭和13年2月16日、河原子町と国分村にまたがる36万余坪の地に工場建設の地鎮祭が行われた。これを伝える翌日の新聞の見出は「日製二段構への飛躍/南多賀久慈の一大工都化」で、中見出しで「素晴らしい南進策/国分河原子の合併促進」をかかげて、久慈漁港の商港化計画を伝える。

日立製作所ではその後に第三弾の大拡張を極秘裡に考究中の模様で、その計画こそは久慈漁港を一躍世界的の商港化たらしめ、五千トン級以上の船舶の出入を可能ならしめんとするものであるが[中略]この計画が実現される前後には、あの大甕原の日立ゴルフリンクスの二十万坪余の広い土地も工場敷地に模様がへされると見られてゐる

久慈港(日立港)の建設着手は久慈町が日立市に編入した2年後の1957年のこと、工場は1970年に久慈町の中心街の北方にあたる日立港後背地区画整理区域内に建設された。

史料

凡例:縦書きを横書きに、句読点は記事のママ、ふりがなはすべて省いた。[ ]は引用者の註。

[史料1]昭和11年10月 日鑛社長の始球/日立ゴルフ塲開き

縣下に誇る大甕甕の原に新設された日立ゴルフ塲開きは一部ルールを變更し十一日午前九時半クラブコース前において安藤知事を始め、山本總務部長[5]、生悦住警察部長、亀山常陽銀行頭取、小平日立製作所社長、伊藤日鑛社長その他地方有志の外會社關係有志等三百餘名參列の下に挙行された、これより先クラブコース前の祭壇において宮田神官により荘嚴なる清祓式を擧げ後、小平理事長の挨拶に次いで安藤知事を始め亀山常銀頭取、五來久慈、森山坂上兩町村長等の祝辞があり、馬塲副理事長は謝辞を述べ引つゞき祝宴を催し同十一時緑の芝生も濃かな約二十萬坪の地域を利用した斬新なホールにおいて伊藤日鑛社長の鮮やかなる始球式に次いで各會員の競技が行はれた

1936年10月12日付『いはらき』新聞 もどる▲

  1. [5]山本総務部長:山本秋広茨城県総務部長

[史料2]昭和11年10月 有志の鎮撫で “先づ無事”/大甕ゴルフ開塲式

(別面所報) 大甕原ゴルフ塲開きは別面所報の如く行われた不賣土地の小作人等がこの日肥料を運搬施肥するといきまいたが久慈町々議宇佐美松兵衛[6]、五來新五衛門[7]外數名の有志の鎮撫により中止したのと大甕神社參道を通行する民衆が日立製作所側で派遣した守衛にさへぎられ小競合を演じたのみで無事午後四時終了した

1936年10月12日付『いはらき』新聞 

  1. [6]宇佐美松兵衛:1893年(明治26)生れ。水産物加工業、のち旋網漁業に進出。1921(大正10)〜40年(昭和15)久慈町会議員。51〜59年茨城県議会議員、57年10月議長(『いはらき』新聞 1967年7月1日付)
  2. [7]五來新五衛門:1893年生れ。海産物商・水産物加工業。1929年(昭和4)〜41年久慈町会議員。41年〜46年久慈町長。45年近海底引漁業開始(五来新五衛門『ひとすじの道』)

[史料3]昭和10年3月 敷地買収價格/製作所側と折衝/久慈町の各町委員が

日立製作所では久慈郡太甕神社前の耕地約十八萬坪を買収し分工塲を設置すべく交渉し事は既報の如くであるが、十九日午後二時から五來町長は關係地主三百餘名會合を求めこれが對策を協議した結果、各町から左の如く三名づゝの實行委員を擧げ二十日午後二時から協議を開いた上製作所側と正式交渉をする事になつた會社側では反當り百八十圓を希望してゐるに對し久慈町では二百圓以上を希望してゐる
五來瀬平、荒川友重、佐藤幸三郎、渡邊吉郎平、根本松太郎、額賀淺太郎、田所午吉、荒川豊、渡邊善八、荒川正、同利三郎、三代万吉、渡邊巳之太郎、飛田重太、出野亀一

1935年3月21日付『いはらき』新聞 

[史料4]昭和10年4月 久慈町に工塲/日立製作所で新設/廿萬坪買収交渉 鮎川日産社長語る

倍額増資する日立製作所では久慈町地内十八萬坪の土地買収交沙中であるが、右に對して鮎川日産社長は左の通り語つた、
目下久慈町に十八萬坪並に別口二萬坪買収交渉を行つて居るのは事實である、自分は未だ右賣買収交渉が纏つたかどうかは聞いて居ない、この用地を如何なる工塲に使ふかは云へないが子會社で工塲を建ることゝなつて居る
尚同社の下河邊専務は、
右用地買収に關しては聞いて居ないが二三萬坪の土地は従業員の運動塲にするのではないかと語つた

1935年4月6日付『いはらき』新聞 

[史料5]昭和10年4月 五月末までに/土地買収を完了/製作所久慈工塲敷地

日立製作所分工塲豫定敷地として久慈町地内大甕驛前國道に沿ふて十九萬坪を選定した事は既報の如くであるが、その後地元久慈町では主として五來町長斡旋の下に荒川龍次氏外三百三名の地主會を開いて諒解を求め高島製作所庶務課長と折衝の結果反當り二百圓平均を以て買収の契約成立した、即ち土地買収交渉委員として
荒川友重、同正、三代萬吉、額賀淺太郎、田所午吉、荒川豊、渡邊善八、出野龜一、渡邊巳之太郎、飛田重太、佐藤幸三郎、五來瀬平、根本松太郎、渡邊吉郎平、荒川利三郎
の十五名を擧げ五月末日まえには完了の豫定であるが敷地十九萬坪の内久慈町分は畑地十七萬五千坪で耕作せる麥作地主において収穫後は絶對播種せざること、大甕神社の久慈濱よりの參宮道路は工塲敷地内に織込まれた關係上製作所側において南寄りの里道を最小限度幅五間乃至七間に改修參道とするの契約全く成り、麥作刈り取りと同時に直に事業に着手し年内には一、二工塲の建築を見るに至るであらうと言はれてゐるから實現の暁には地元町村は勿論經濟的に隣接町村太田町方面まで恩恵に浴することゝなる

1935年4月15日付『いはらき』新聞 

[史料6]昭和10年10月 知事に嘆願書提出/久慈町の地主代表出縣

製作所の交渉に應じ土地を賣つたが價額が安過ぎたと増額運動に起つた久慈町の地主代表渡邊吉郎平外十氏は二十七日出縣折柄縣會へ列席中の島津、菊池(信)、齋藤三縣議に面會の上縣議等の斡旋により林知事と會見嘆願書を提出し縣盡力を依頼して引上げた

1935年10月28日付『いはらき』新聞 

[史料7]昭和11年10月 ゴルフ塲/また、開塲式異變/賣らぬ地主等頑張る

日立製作所では本年度春以來久慈町大甕原ゴルフ塲敷地買収を開始し二十萬圓を投じて十八萬坪を買収して周圍三、四里に金網を張繞らし別面所報の如く今十一日午前十時から安藤知事以下縣内多數名士を招待、安藤知事の始球式に依り盛大な開塲式を擧行するため萬般の準備を整へたが十八コース中最も重要なるコース三ヶ所に突如十日午後五時半頃水戸市仲町辨護士増田弘、那珂郡石神村根本秀之介、久慈町町議五來新五衛門、同宇佐美松兵衛、同宇佐美半次郎、太田區裁判所執達吏代理介川捨吉外數名並に人夫十數人が現れ立札數本を立てゝ立入禁止を行ひ合計四千坪の周圍に棒杭を打立て太い針金を張繞らした、日立製作所側ではこの突發的な立禁に極度に狼狽したが最早開塲式延期の通知も出來ず呆然自失の有様であるが十一日は右四千坪の不買[賣]地主側では人夫を入れ耕作物を荒されぬよう手配するが製作所側でも人夫百余名を使用してゴルフ塲整理のため双方人夫間と抗爭が行はれるものと見なされ太田署では署員總動員で警戒するがその成行は頗る注目されてゐる

1936年10月11日付『いはらき』新聞 

[史料8]昭和12年6月 大甕ゴルフ塲の不賣地問題再燃/“大事な土地を遊戯塲に出來るか”/久慈町・反撃を决議

日立製作所が一年有餘の長時日を費し廿萬圓の巨費を投じて久慈町の大甕原約十八萬坪を買収設置した問題のゴルフ・リンクスは今なほ「工塲建設の敷地ならば無償で喜んで寄附するが有閑階級の遊戯塲では絶對反對である」とて買収に應じない土地が一町三反歩餘あるので日製側では必死となつてこれが買収を完了せんとし山本縣總務部長を動かし調停策の樹立を急いだ結果日製側の譲歩によつて近く調停が成立するかに見られたが過般來俄然形勢は一變し近く久慈町會では日製側に對して「町道を勝手にゴルフ塲用地に使用してゐるのは怪しからぬ」とて決議の上猛然反撃を開始する一方塲内の不賣土地内に避暑用の宏大な別荘を建築することゝなった、これを聞いた日製側では愕然色を失つて大狼狽し山本總務部長に泣きつくものゝ如くで極秘裡に買収工作促進に乗出したが、過般の町議改選後の同町は十對七で元の町民派が絶對優勢となり町長も自派の荒川友重氏であるところから町會の決議は自由であり自治体として戰ふ強味があり、今後の對立抗爭は文字通り鋭角的となるものゝ如くその成行は各方面から頗る重大視されるに至つた右につき關係者は次ぎの如く語つてゐる(冩真は同ゴルフ塲の一部[写真略]

根本石神村有志 この件につき山本總務部長の話とあつて四日水戸で風戸農銀支配人竹内水濱専務と會見したが久慈町では總務部長が警察管區移管問題や太田高女校の寄附金問題で呼出しては威壓的態度に出たといふので非常に憤慨してゐるから現在のところでは圓満解決は頗る困難だと思ふ
宇佐美(松)久慈町議 町會の决議を無視して前町長等と日製が自治体の權利を蹂躙するのは許すべからざるところである、我等は町民の代表である限り町と町長の利益の擁護のためには相手を選ばず飽迄戰ふ覺悟である

1937年6月6日付『いはらき』新聞 

[史料9]昭和12年10月 製作所の出様如何で/紛爭さらに激化せん/再燃のゴルフ塲問題

既報、一時落着せるかに見えた久慈町郊外大甕ゴルフ塲問題は最近に至りて紛爭再燃し久慈町有志對日立製作所の正面衝突を憂慮されてゐるが二十日隣村久慈郡坂本村出身の政友會所属川崎巳之太郎代議士は久慈町有志渡邊吉郎平外十數名を引率出縣し今松總務部長に面接問題の經過を説明陳情する處あつた同問題は曩に民政黨所属中井川代議士の調停失敗以來、悪質ブローカー跳梁を極めをる現状にてこれが對策につき數日前山本製作所總務部長が出縣高橋特高課長と鳩首協議せる模様であり製作所側の出様に依つては再び紛爭激化するものと見られてゐる

1937年10月21日付『いはらき』新聞 

[史料10]昭和12年11月 [河原子町・国分村]時勢に目覺めた地主/土地賣却を申出づ/日製工塲擴張好轉す

躍進の一途をたどつてゐる日立製作所では工場擴張のため隣接河原子町に六十四町歩、同國分村に五十一町歩の土地を買収すべく交渉中であつたが二、三地主との間に買収價格が折合はず、さる八月十日以來中絶の形となり製作所側では止むなく東京府下亀有に土地を買収着々工場建設中であるがその後河原子、國分兩町村の地主は本縣の発展が工塲誘致に負ふところ多く製作所の擴張は取りも直さず本縣の発展であることに目覺め進んで所有地の賣却を希望し林知事に斡旋方を申入れるに至つたので製作所側でも本月末までに地主の意向が纏まる限り交渉再開を應諾することになつた。この買収交渉が成立すれば製作所では直に工塲建設に着手する手筈なので日立、助川兩町と共に、大大工塲地帯が出現し國防上絶對の必要を認められてゐる大甕ゴルフ塲の重要性もいよいよ増大するわけで注目される、かくて社長鮎川義介氏が日満經濟統制會社(假稱)社長に就任し吾が工業會に覇を唱へるに至つた日立製作所の躍進は近來殊に著るしいものがある

1937年11月4日付『いはらき』新聞 

[史料11]昭和10年3月 日立製作更に/大甕に廿萬坪/ゴルフ場設置か

インフレ景氣で異状の發展を示せる日立製作所では助川驛前なる宏大な海岸工場敷地も既に狭隘を告げ更に大甕驛前なる畑地二十萬坪を買収すべく目下畫策中であるが一説には茲に大ゴルフ場を設けるものともいはれる

昭和10年3月2日付『いはらき』新聞 

大甕ゴルフ場関連『いはらき』新聞記事一覧

  凡例:日付・見出・掲載史料番号の順

*上記の記事をテキスト化しました。興味関心のあるかたは こちら を。

附記1 謝辞

本稿は、石川政憲『久慈浜の歴史(上巻)』(1996年刊)にたすけられた。『日立戦災史』(1982年刊)執筆時点で新聞記事のいくつかに目をとおしていたのだが、課題からはそれていたのでそのままにしていたのを石川さんが丁寧に掘り起こしてくださっていた。また日立市郷土博物館『写真集 のびゆく日立』(2005年刊)に登載された「久慈町会議員の海岸工場視察記念」写真が気にかかっていた。終わったわけではないが、ようやく一区切りできた。企業と地域社会を考える材料となればとまとめました。

附記2 鈴木茂男『日立街史』から

鈴木の『日立街史』(1968年)がすでにこのゴルフ場用地買収についてふれていた。ところどころ引用して紹介する。

小平浪平社長の発想 二十万坪のゴルフ場 いうまでもなく戦前、発展期にあった日製の勤務は多忙をきわめ、役職にあるものほど激務であった。小平社長はこうした社員とくに年輩者の健康と心気の転換を考え、忙中閑ありのスポーツとしてゴルフをさせたいとの温情もあったろう。日立在住の高尾常務にゴルフ場建設を相談した。猫も杓子もゴルフに興ずる現代から半世紀も前、この発想は実にユニークである。[中略]
 [昭和10年]七月ごろから買収工作を開始し、年末までにほとんど目標達成というすばやさ、それには工場ができるという噂がパッとひろがったことにもよるようだ。[中略]これから町もおいおい発展するぞと口ぐちに喜び合い、契約書にポンと印鑑をおしたという。
 ところが住民の目にしたものは、明るい太陽と緑につつまれた広びろとした十八ホールのゴルフ場であった。今でも地元の古老ことに久慈町には、おれたちは日製にだまされたと怒る人が多い。
ほとんどゴルフ場の知識のない買収委員たちは、まさか耳かき棒のように長いもので球をころがす運動場をつくるので土地がほしい、ぜひ売ってほしいと説得はできなかったろう。会社が土地を買うといえば誰だって工場ができると思いこむ。こうしたいきさつが誤解となって尾を引いているのであろう。

鈴木はゴルフ場をつくろうとする日立製作所社長小平浪平の「発想は実にユニーク」だと高い評価をする。その上で用地買収問題にふれる。

工場ができると町民を説得して買収をすすめたのは、町長はじめとする地元久慈町の買収委員だった、というのである。「会社が土地を買うといえば誰だって工場ができると思いこむ」。鈴木の論にしたがえば、この噂から生じた「誤解」を利用して買収を進めたのだということになる。したがって地元の古老が「日製にだまされたと怒る」のは「誤解」から生じたもので、見当はずれとなる。

新聞記事や古老への取材によったという鈴木の記述には出典が示されていないので、あつかいに困るのだが、新聞記事によってのみ紹介している本ページを補足する意味で紹介した。