史料 十八道坂と石名坂

島崎和夫

江戸時代、徳川光圀が常陸国久慈郡の石名坂村の石名坂を十八道坂と書くよう指示したと言われているが、十八道坂は定着しなかった。十八道坂とされた経緯および十八道とはなにか、そして村名表記として定着しなかった理由さぐる。

目次


小宮山楓軒「水府志料」

文化4年(1807年)成立(『茨城県史料 近世地誌編』所収)

石名坂村の条に十八道坂の項目がたてられて、次のような説明がある。

十八道坂 坂長九十六間。古來石那坂と書す。水戸義公(徳川光圀)命じて、十八道の字用ひらる。按ずるに、森山より磯原迄、片浜通十八ヶ村への往還、此坂の外に道ある事なし。故に名付られし歟。此坂より北にある村々、これを坂上郷と稱す。

石名坂は古くから石那坂と書いてきた。その石那坂に「十八道坂」の漢字をあてよ、と命じたのが、徳川光圀だというのである[1]。しかし江戸時代を通じて「十八道坂」という漢字が村名として用いられたことはない。「十八道」を「いしな」と読ませるのは人々を困らせるだけである。光圀が命じたといってもそれは無理である。

小宮山は十八道を森山(日立市)より磯原(北茨城市)迄の「片浜通十八ヶ村」にいたる道ではないか、そしてこれらの村へは石名坂を通る以外にないからだと考えた。

楓軒はなぜ石名坂からはじめなかったのか、なぜ磯原を終点としたのか、わからない。だが楓軒の言うとおり森山村から磯原までの岩城海道が通る村を「水府志料」によって数えてみよう。

1森山 2大沼 3金沢 4大久保 5河原子 6下孫 7諏訪 8油繩子 9成沢 10助川 11宮田 12滑川 13田尻 14小木津 15折笠 16川尻 17伊師本郷 18伊師浜 19伊師町 20石滝 21安良川 22高萩 23高戸 24赤浜 25小野矢指 26粟野 27足洗 28下桜井 29臼庭 30磯原

磯原村は30番目である。上記の村から(1)宿駅がある(2)海道に宿が形成されている(3)「岩城便宜」(『道中記に見る江戸時代の日立地方』所収)に「岩城海道筋ナリ」「東奥往来ノ駅路タリ」などの海道とのかかわりを示す記述の有無によって絞ると、4と5の大久保・河原子村は、両村の境が岩城海道で、村内を海道が通るというのではなく、しかも海道沿いに集落はないので除外することができる。17伊師本郷と18伊師浜村も同様である。7の諏訪村は、村の東端を海道がかすめるように通るだけであるし、26の粟野村も諏訪同様に村のほんのわずかな部分を通過するだけである。これら6ヶ村を除外しても18ヶ村にはならない。「片浜通」が意味するものもわからないし、楓軒も推測であるとしているので、「十八ヶ村」の探索はあきらめる。

[註]

  1. [1]「水戸義公命じて、十八道の字用ひらる」と楓軒が書くのは、正確ではない。誤解をまねきやすい文章である。「十八道」は「日乗上人日記」の項で説明するが、石名坂を歌に詠むときの題として光圀が詠者に示したものなのである。

筆者が十八道坂のことを知ったのは、この「水府志料」によってである。しばらくして次の「みちくさ」にもあることを知った。「みちくさ」の記事に興味をおぼえ、調べはじまったのでした。それを報告します。

雨宮端亭「みちくさ」

寛政3〜6年(1791-94)(『美ち草』郷土ひたちシリーズ第十号に翻刻)

松岡組の記述の末尾に十八道坂の記述がある。しかし次項で紹介する高倉胤明「水府地理温故録」とほぼ同文で、成立年からみても「水府地理温故録」を写したと考えられるので、解説は省略する。

雨宮は十八道の由来について関心がなかったか、考えるのも無意味と思ったか、いっさい説明していない。

高倉胤明「水府地理温故録」

天明6年(1783)成立(『茨城県史料 近世地誌編』所収)

台渡村(水戸市)の条に次のようにある(〈 〉は割書。[ ]は編者註)

一 三橋夕流士の雨夜の伽に、水戸御領内名所を 義公様より安藤主税へ被 仰付、御撰定被置し名所三十二ヶ所。

三橋夕流「雨夜の伽」[2]によれば、徳川光圀が水戸領内の名所をあげてみよと家臣の安藤に命じた。そして光圀が選んだのが、村松以下の32ヶ所だった。

このなかに十八道坂がある。どこのことか。疑問を抱いた高倉胤明はあれこれ調べ考えたところ、光圀が石名坂の文字を十八道坂と書くようにとの指示により、太田の蓮花寺の日乗が十八道坂の歌を詠んだことがわかった。たしかな書付[3]があるのでそれを写す、として胤明は癸酉の年(元禄6年)10月5日の田中内村の詩歌の会での題と詠者と蓮華寺日乗の十八道坂と題した歌を引用する。

元禄6年に田中内村で光圀主催の詩歌の会があって、十八道坂の歌が詠まれ、その後になって水戸三十二名所の選定がなされたときに十八道坂も光圀よって選ばれた、という順序であろう。

なお十八道坂の歌の後に「胤明曰」として日乗についての簡単な人物紹介があるが、この部分までが「慥成方」の記録である。

そして最終の段落「右此條にかゝかわれるにはあらね共……」の一文は、台渡村にまったく関係しない石名坂のことを書いた理由を述べる。台渡村の長者旧址から石名坂が見えて、思い出したからだと[4]

なお高倉は十八道のいわれについて、頭書で静神社の十八女に由来すると記述しているが、詳しい説明をしていない[5]

いずれにしても光圀が石名坂を十八道坂と書き置くよう命じたこと、その証拠として日乗の歌が存在することを高倉は明らかにしたのである。

さて元禄6年10月5日に光圀を囲んで詩歌の会が開かれたのだろうか。

  1. [2]雨夜の伽:茨城県立歴史館が収蔵する。本史料を閲覧したが、該当記事を見いだせなかった。
  2. [3]慥成方に書付:出典不詳。まったくの推測だが、次項「日乗上人日記」にある「別記」のことか。
  3. [4]高倉がここで思い出さなかったら、石名坂と十八道坂のことは後世まで伝わらず、本ページも成立しない。感謝しなければなりません。
  4. [5]この点について、志田諄一『寺社の縁起と伝説』は、「静神社社記」に建葉槌命が道にて十七八の女に化けた悪神香香背男を滅ぼしたことから、その女に出会った道を石名坂と言った、とあるという。古代の話。昔話の類いである。

日乗上人日記

稲垣国三郎編『日乗上人日記 自元禄四年 至元禄十六年』(1954年刊)

新宿村日蓮宗蓮華寺(同村久昌寺末)の僧日乗が日記を残している。『日乗上人日記』として公刊されている。

この史料によって10月3日〜5日の三日間詩歌の会が開かれていたことが裏付けられる。

元禄6年9月28日、日乗は光圀から田中内村に行くので同行するよう誘われた。法事の途中だった日乗は、法事を済ませてから夕刻田中内村に向かった。光圀の宿「御殿ハ大内勘 [ママ]衛門が所」だが、日乗はちかくの勘兵衛宅に宿をとった。日乗は翌月六日昼に田中内をでて寺にもどるまでの七日間、光圀と行動をともにする。光圀が西山御殿に帰るのは八日のこと。

日乗によれば、田中内滞在中に詩歌の会は10月3・4・5日に開かれている。「雨夜の伽」にある「癸酉十月五日於田中之邑會」が開かれたことはこれによって裏付けられる。残念なのは詩歌の会が開かれたというだけで、「水府地理温故録」が言うところの石名坂を十八道坂と書くように、その歌を日乗が詠むようにとの光圀の指示があったことは書かれていない。さらに3・4・5日に詠まれた詩歌をいずれも「別記」するとしており、日記には見あたらないことである。

「水府地理温故録」の記事をあわせて考えると、石名坂を十八道坂と書くようにと光圀が命じたのは、元禄6年10月5日の詩歌会の席上、題として与えたものであって、いっときのもの。水戸三十二景は知られることもなく、したがって定着するはずもなかった。

華園山縁起

貞享5年(1688)成立 花園山閑居弁高法印写
(金砂郷村史編さん委員会『史料集 西金砂の祭礼と田楽』2000年刊)

天台宗華園山金剛王院満願寺(北茨城市)の「華園山縁起」に次のような一節がある

就中當山往古移葛良城山近国修験入峯、南石名坂入峯、初此所十八道行法修行。因茲十八道トカキテイシナサカトヨム、老翁伝也。今諸人迷故石名坂書也。

華園山(北茨城市)は昔葛城山[6]を移して修験の道場としたもので、近国からの修験の入峰は南の石名坂からはじまる。ここ石名坂で十八道行法を修行することになっている。それにより十八道と書いてイシナザカと読むことにした、と古老が伝えている。今は人々が迷うので元のとおり石名坂と書く。

このように「華園山縁起」は述べる。光圀の名はでてこないが、古老の話に光圀の詩歌の会の一件が反映しているかもしれない。

十八道は、密教系寺院(天台・真言)における修験道の修行法の一つである[7]

しかも石名坂村にはかつて天台宗地蔵院があった[8]。十八道行法がはじまる地に天台宗の寺院があったことは、華園山縁起が根拠のない話を伝えているわけではないことを意味しよう。

  1. [6]葛城山:大和・河内の国境から南西の紀伊・和泉の国境におよぶ山系を葛城山といい、金剛山・戒那山(カイナサン のち葛城山)を含む。葛城山は山岳修行者の道場でもあり、修験道の開祖役小角をはじめ数多くの山林修行者が集まった。
  2. [7]十八道行法:天台・真言の密教で伝法灌頂を受ける前の段階において、本来の修行の功を増加させるために行う修行がある。それを四度加行といい、十八道法、金剛界法、胎蔵法、護摩法の順に行われる。
  3. [8]地蔵院:北野山薬王寺。開基は大同元(806)年と伝えられ、天保年間水戸藩の社寺改革により本寺の白羽村大聖院に寄せ寺となり、廃寺となった。

十八道坂の由来

「水府志料」の著者小宮山は十八ヶ村説、「みちくさ」の雨宮は無関心、「水府地理温故録」の高倉は静明神縁起にある十八女説、そして「華園山縁起」の十八道行法説。上にみてきたように、十八道行法説が妥当である。

些細なことだが、ここでは「水府地理温故録」「水府志料」とも十八道坂でイシナザカと読ませ、「華園山縁起」は十八道と書いてイシナザカと読ませている。同じことである。訓がイシナザカなら、どのような漢字をあてても間違いではない。

光圀は石名坂で十八道行法が行われていたことを知っていた[8]。それゆえ田中内での詩歌の会で石名坂を詠むにあたって、十八道という題を日乗上人に与えた。石名坂村を十八道坂村と改称せよと命じたのではなかった。

  1. [8]志田諄一『寺社の縁起と伝説』によれば、前掲の「華園山縁起」の元になる縁起を光圀は読んでいることは確実である。というのは、光圀は寛文2年(1662)に郡奉行岡見弥次右衛門を華園山に派遣し、縁起を取り寄せ、「花園権現神記」を新につくり、寄進しているからである。

参考文献