水漏舎小学校

水漏舎跡 南側から

明治5年(1872)新政府は「学問は身を立てるの財本もとで」として「むらに不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」と国民教育の方針を示し、学校の設立を村に求めた。茨城県は小学校の設立をいそいだ。それまでの私塾に開業願を提出させ、小学校として認めた。明治5年から6年にかけて、日立市域ではこうした小学校が10ヶ村で開業したことがわかっている(後出「草創期の小学校」中の村名をもたない学校が該当しようか)

それらのなかで、教場が建っていた跡地が市の公園として残り、建物の外観写真と間取図から規模がわかり、さらに残された史料(瀬谷義彦家文書 日立市郷土博物館所蔵)から詳細を知ることができるのが、成沢村の水漏舎である。

水漏舎と成沢小学校

明治6年(1873)7月24日、成沢村の有志は瀬谷登之介宅を借りて「水漏舎小学校」を設け、水戸彰考館総裁代役・弘道館教授頭取などをつとめた青山延光(量太郎)について「支那学・数学」を学んだ瀬谷を教員にして子供たちの教育を開始した。そして8月には成沢村の戸長らが茨城県に「私学開業願」を提出した。学校の名称は「成沢小学校」、教員は水漏舎の瀬谷登之介である。つづいて10月に村は学校の運営経費が用意できたことを県に報告した。そして12月28日付で開校を許可する旨の茨城県の通知を成沢村はうけた(私学開業願)

瀬谷登之介は安政6(1859)年、22歳の時に家塾水漏舎を引き継ぎ、子供たちの教育にあたってきた(家塾取調書上)。この実績を踏まえての、村人の水漏舎小学校の開設願いであった。

こうして瀬谷宅において小学校が発足した。その後教員の給料、備品費、教材費など運営経費の不足を村費をもって補ったが、一村の負担ではまかなえず、明治10年1月成沢小学校は油縄子小学校に合併する。成沢小学校は明治22年に場所をかえて再開するまでの12年間途切れることになるが、水漏舎の系譜をひく成沢小学校の歴史は120年を超える。

水漏舎のその後

1954年(昭和29)、日立市は不足を来した上水道の水源確保のため瀬谷宅内の湧水を池ノ川水源地とすることとし、そのため水漏舎の教場となった瀬谷家居宅は解体される。池ノ川水源地は、1982年3月枯渇のため廃止となり(『日立市水道五十年史』)、その後市の「池の川弁天池公園」として整備され、現在に至る。

水漏舎の跡地は、2015年3月に史跡として日立市指定文化財となった。

草創期の小学校

設置村 名 称設置場所 教 員 開設時期
多賀郡
金沢村 大澤舎 明治6年8月15日
大久保村 大久保
小学校
大久保郷校
(興藝館,暇修館)
野口勝一[1] 明治6年8月
河原子村 河海舎 東福寺 明治6年8月
油繩子村 油繩子
小学校
字原宿新田 日向 靖 明治6年7月
諏訪村 諏訪小学校 郷蔵地 明治6年7月
成沢村 水漏舎 瀬谷登之介宅 瀬谷登之介[2] 明治6年7月24日
助川村 尺蠖舎 岡部億衛門宅 白井左右助 明治6年7月27日
宮田村 該博舎 佐藤理左衛門宅 斎藤維民[3] 明治6年6月27日
滑川村 滑川小学校 観音院 石井磊三[3]
田尻村 発蒙舎 安達勝功[3] 明治6年7月
川尻村 養正舎 勝間田小太郎宅 小野崎静[4] 明治6年8月
友部村 興藝小学校 福地兌宅 福地 兌[5] 明治6年6月29日
伊師村 振衣小学校 大塚祐敬宅 大塚祐敬[6] 明治6年
山部村 時習小学校 樫村與次衛門宅 樫村與次衛門[7] 明治6年
久慈郡
中深荻村 中深荻
小学校
戸長大部喜明
所持地
明治7年2月
久慈村 久慈小学校 須田幸八宅 佐々木良介[8] 明治6年7月9日

『新修日立市史 下巻』『十王町史 通史編』より

学校の名称由来

  1.  大澤:だいたく。天子の恵み
  2.  河海:かかい。河海は細流を択ばず。黄河や海がどんな支流や小川の水をも差別なく受け入れるゆえに深くなる意から、大人物は度量が広くてよく人を容れることにいう。(史記‐李斯伝「河海不択細流、故能就其深」
  3.  水漏:すいろう。水時計
  4.  尺蠖:しゃくかく。せきかく。「易経‐繋辞下」の「尺蠖之屈、以求信也、龍蛇之蟄、以存身也」による。シャクトリムシがからだを縮めるのは、次にからだをのばして前進しようとするためであるの意で、将来大きく発展しようとする人間は、一時、人のうしろにさがって待機する心がけが必要であるということ。
  5.  該博:がいはく。「該」は兼ね備える意。万事にかねて広く通ずること。広く物事に通じていること。学識などの広いこと。
  6.  発蒙:はつもう。道理にくらい者を啓発すること
  7.  養正:ようせい。正義の心を養うこと。正道を養成すること
  8.  興藝:こうげい。興はおこす、藝は技術、才能、学問。
  9.  振衣:しんい。「楚辞‐漁父」の「新沐者必弾冠、新浴者必振衣」とある屈原のことばによる。かぶっている冠を指ではじき、衣をふるって塵をはらうこと。俗世間から超越しようとすることのたとえ。
  10.  時習:じしゅう。「論語‐学而」の「子曰、学而時習之、不亦説乎」による。学びて時にこれを習う。またよろこばしからずや。時々復習し、身につけていくことはよろこばしいことだ。ひいて学問すること。

[註]

  1. [1]野口勝一:明治時代の政治家。嘉永元年(1848)10月生まれ。自由民権論に共感し、茨城県会議員をへて明治25年衆議院議員(当選3回、自由党)。茨城日日新聞社長。明治38年(1905)11月23日歿。58歳。常陸国多賀郡磯原村(茨城県)生れ。茨城師範卒
  2. [2]瀬谷登之介:上記
  3. [3]斎藤維民・石井磊三・安達勝功:3人とも水戸藩家老山野辺氏(幕末に助川海防城主となる)の家臣
  4. [4]小野崎静:神官
  5. [5]福地兌:医者
  6. [6]大塚祐敬:神官
  7. [7]樫村與次衛門:神官
  8. [8]佐々木良介:医者
  9.  *教員が武士のほかに神官、医者が大半で、僧侶がいないのはこの地域が水戸藩領だったことと無縁ではない。

参考文献