一市民の夢 博物館建設への歩み

日立市郷土博物館協議会委員長  瀬谷 義彦

戦災後の復興もまだ充分でなかったころのある日、日立の町角でひょっこり、旧制中学での教え子に会った。当時彼はH工場の技術者だったが、その時の立ち話で、彼がなにげなくいったことが、いまでも忘れられず、彼を思いだすよすがともなっているが、そればかりではなく、いつかそのことばは、私にひとつの夢を抱かせてくれる、いわば励ましのことばともなった。

それは、「先生やっぱり日立には文明はあるが、文化はなかったのですね、水戸はその逆ですよね」ということばであった。当時はまだ飢餓からの脱却もできず、生活にだれもが疲れ切っている時だったが、平和的な文化国家建設の叫び声が高く、文化の意味が改めて敗戦国の一人一人に間い直されている時でもあったから、彼の一言は、水戸と日立の比較を、実に的確に言い当てたものと思って、彼の成長振りにすっかり感心させられたものだった。

しかしよく考えてみると、この比較論は近代工業化の波が高くなってきて以来の日立を、痛烈に批判したことになるわけであるから、自分の住む日立を、もっと住みよいまちにする努力もしないで、いいふらすだけでは、無責任な放言になってしまう。どうもそんな気もしてならなかったが、しばらくはそれ以上考えを進める余裕もなく過ぎた。

ところが、市制20周年が近付いたころから、彼のことばが強く甦えって、私は水戸とは違った歴史が日立にはあったはずだ、決して新しいまちではない、原始古代人の生活の跡もあるし、「常陸国風土記」を見れば、日立地方には水戸以上のゆたかな記事がたくさんある、といった点を、市民の手で調べ、市民の力でそれを書き留め、市民のかたがたに知らせる義務があるように思われてきた。それは、昭和34年2月茨城県で最初の市史となって結実した。その本を見るたびに私は、背表紙の力強い「日立市史」の文字に、それを揮毫された高嶋市長さんの決断を、いつもありがたく思いだすのである。

古いだけがよいのではない、古くて新しいということこそ文化の要件ではなかろうか、などと考えると、日立にはもっともっと必要なものがあるはずである。市民会館ができ、図書館ができた。文化財保護条例もつくられた。日立には日立の歴史があり、市民の手で守らねばならない文化財も決して少なくないことがわかってきた。文化財保護条例が施行されたのは昭和45年4月であるが、それから1年あまりたった46年7月、「日立市郷土資料館(仮称)建設調査委員会」が、教育長の諮問機関として設置され、委員10名が委嘱された。それ以後私ども委員は県外先進地の博物館の視察やら、答申すべき基本構想について、公私にわたる会合を、かなりひんぱんに開いたことを思いだす。それは、県内の市町村としてはじめての博物館をつくるのだという喜びがあったように思う。日立には文化はない、というあのことばが、博物館建設という夢を、市民の私どもに授けてくれたのではないかとも思った。

ともかくその夢は着々実現に向って進み、予定より早く、47年8月中旬調査委員会の名で、基本構想の最終答申を提出するまでになった。しかし、いかにプランはできても、問題は財源である。それについては、私どもは全く無力である。私は当時の記録を整理していたところ、つぎのようなメモのコピーを発見した。それは横書きであるが、つぎのように書かれている。

「市長が『財源に3、4億の余裕ができたから、何か事業を考えたい』と言われたとか、2、3の方面から伺いましたが、若し都合がつけば『資料館』引き当てに、1、2億財調金に繰り入れておいていただけないでしょうか。9月末までに調査員から答申も出ますし、来年度着工にハラがきまれば、本格的に具体化出来ると思うのですが、いかがなものでしょうか。」

これは47年5月24日、軍司教育長の日付印がおしてあり、明らかに軍司さんの字である。それに対して、5月31日の萬田市長の丸印があって、市長さんの字で、9月の補正予定で設計委託料がいくら必要か、という書き込みと、「48年度工事費予算化でやりたい」という走り書きがついている。

私はこのメモのコビーから、あの当時目を輝やかして、熱心に東奔西走されていた、いまは亡き軍司さんの元気な顔を思いだす。そして、市民の動向と全体の計画とを見つめ、財政措置に積極的な慎重さで決断を下された市長さんの、悠揚迫らざる態度を、いまさらながらありがたく思い起こすのである。

その後名称も佐藤惣一委員の意見により、資料館よりはもっと幅のある博物館と決定し、調査委員会は準備委員会となり、49年には工事の進行にともなって、博物館協議会が設置され、展示資料に関する小委員会も開かれ、市民のいこいと教養をモットーとした郷土博物館の一切の工事は、50年3月に完了し、その4月12日桜の満開のなかに開館式が挙行された。その席上委員の一人として私は少し大げさといわれるかも知れないと思ったが、本日の開館は日立市にとって「文化の黎明」であり、博物館は日立市の「文化的発展の拠点」であるといった意味を述べたことを覚えている。

その後館長に人を得、館員の熱意によって博物館は県内市町村には見られない確固たる歩みを続けている。私はいまでも、博物館は単なる展示場ではない、と信じている。展示には学問的裏付けと工夫が必要であり、市民への奉仕の心が要求される。館員のそうした活動を助け、私どもは日立市の文化の向上に協力したい。

私どもはひとつの夢を授けてくれたあの一言を、一日も早く返上して、近代文明と香り高い文化に浴することのできる日立の一市民になりたい。

『市民と博物館』第7号(1980年4月1日)より